大関増備
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保17年11月19日(1733年1月4日)[1] |
死没 | 明和元年8月27日(1764年9月22日)[1] |
改名 | 直之助(幼名)[1][2]→増墨→増備 |
別名 | 弾正[1][2] |
戒名 | 玄梁院殿活眼道印大居士/活眼道印玄梁院[2] |
墓所 | 栃木県大田原市の大雄寺 |
官位 | 従五位下・因幡守[1][2] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 下野黒羽藩主 |
氏族 | 大関氏 |
父母 | 父:大関増興、母:六郷政晴娘[2]・万里 |
兄弟 |
増備、増副、 慈法院(分部光庸正室)、大嶋義周室、 瓦林嘉成室ほか |
妻 |
正室:池田政方娘[2] 側室あり |
子 | 増輔、女子 |
大関 増備(おおぜき ますとも)は、江戸時代中期の大名。下野国黒羽藩8代藩主。
享保17年(1732年)11月19日、7代藩主・大関増興の長男として江戸で生まれる。延享5年(1748年)6月13日、江戸幕府9代将軍・徳川家重に御目見し[2]、弾正と通称を改める。宝暦12年(1762年)、藩政改革の私案を「政事改正考草按」にまとめ増興に提出した。宝暦13年(1763年)10月10日、父の隠居により跡を継ぎ、名を増墨から増備に改める。同年12月9日、従五位下・因幡守に叙任されたが[1][2]、1年足らずの翌年8月27日に死去した。
跡を長男・増輔が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 池田政方の娘
側室
- あり
子女
- 大関増輔(長男)生母は側室
- 娘