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大関資増

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大関資増
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正4年(1576年
死没 慶長12年4月1日1607年4月26日
改名 弥六郎(幼名)[1]→資増
戒名 重弘院殿劔性宗恵大居士[1]/劔性宗恵重弘院[2]
墓所 栃木県大田原市黒羽田町 大雄寺
官位 従五位下[1]左衛門督[1][3]
下野黒羽藩
氏族 大関氏
父母 父:大関高増 母:宇留野義元
兄弟 晴増清増資増茂直金丸資満室、
千本資政正室(後蘆野盛泰室)
正室:佐竹義久[1]
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大関 資増(おおせき すけます)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名下野黒羽藩初代藩主。

生涯

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関ヶ原の戦い

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慶長元年(1596年)、兄・大関晴増が死を間近に迎えた際にその嫡子・大関政増が幼少であった事から後継に弟の資増が指名され家督を相続した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時には徳川家康の東軍に属し、上杉景勝の抑えとして所領の黒羽が陸奥国の境にあるという事を家康に重要視され、榊原康政の家臣の伊奈主水黒羽城の修造を行った。

同年7月に徳川家康・徳川秀忠父子が下野を発つ時は大田原晴清伊王野資友と共に小山に参陣し拝謁。家康より宇多国宗の刀と金100両を賜った。また、岡部長盛水谷勝俊服部保英が援軍として黒羽城に入り[4]、大砲15挺と弾薬が黒羽城に送られた。また、資増も甥・政増を人質に送り、二心なき事を示した。

早世

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慶長7年(1602年)まで関ヶ原の戦功などで総じて7,000石を加増され、従来の13,000石と合わせて20,000石の大名となった。後に領していた真壁郡の郡名を改め、芳賀郡とし、陸奥石川郡にあった領地を芳賀郡に移した。

慶長10年(1605年)、病を得て甥の政増に家督を譲って隠居した[5]。慶長12年(1607年)、死去。享年32[1][2]

系譜

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父母

正室

養子

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『創垂可継』
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』
  3. ^ 『譜牒饒録』
  4. ^ 『史料綜覧』第11編之913 240頁
  5. ^ 大日本史料』第12編之3 751頁

出典

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