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大阪体育大学ラグビー部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大阪体育大学ラグビー部
原語表記 大阪体育大学ラグビー部
クラブカラー 黒と白
愛称 ヘラクレス軍団、ダイタイ
監督 中谷誠
所属リーグ 関西大学ラグビーリーグ戦・Bグループ(2部リーグ)
公式サイト
http://daitaidai-rugby.com/
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大阪体育大学ラグビー部(おおさかたいいくだいがくラグビーぶ、Osaka University of Health and Sport Sciences Rugby Football Club)は、関西大学ラグビーリーグ戦Bグループ(2部リーグ)に所属する大阪体育大学ラグビー部。略称大体大(だいたいだい)または大体(だいたい)。愛称は「ヘラクレス軍団」[1][2][3]

歴史

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1968年にラグビー同好会として発足した。1971年、関西大学Bグループで優勝し、1972年度より関西大学Aグループに参戦したが、8チーム中、7位、6位、7位、5位、7位と下位に甘んじていた。当時、専任の指導者がおらず、大阪教育大学から週1回非常勤でラグビーの授業を教えにきていた辻野昭が来校していた日のみ練習を見ており、それ以外は辻野の作った練習メニューを部員たちでこなしていた。

1975年、常勤での指導者が欲しいということで中島直矢(元毎日新聞社運動部長で、当時学生部長、後の名誉教授)が同志社大学岡仁詩に相談した結果、現役を引退したばかりの近鉄坂田好弘を薦められた。当初、坂田は近鉄の社業に専念するつもりで固辞していたが、中島の粘り強い説得で、1977年より同大学の講師に就任し、ラグビー部監督にも就任した。

1978年には関西Aグループで3位に入った。しかし、大学選手権出場をかけた関西第三代表決定戦で東海地区代表の中京大学に敗れ、初の大学選手権出場は逃した。

1981年、関西Aグループで再び3位に入り、関西第三代表決定戦でも勝ち、初の大学選手権出場を果たす。この時、同大会で優勝する明治大学に1回戦で対戦し10-20と善戦する。

1982年、関西Aグループで大八木淳史平尾誠二率いる同志社大学に続き準優勝を果たした。2度目の大学選手権でも明治大学と1回戦で対戦したが敗れる。

1985年、関西Aグループで同志社大学を34-8で破り、同大のリーグ戦71連勝をストップし、関西Aグループで初めて優勝した。

1986年、初めてのニュージーランド遠征を敢行した。1987年、関西Aグループで2度目の優勝を果たした。大学選手権では優勝した早稲田大学に準決勝で惜敗した。

1989年、関西Aグループで3度目の優勝を果たした。大学選手権ではまたも優勝した早稲田大学に準決勝で敗れる。更に2年後の1991年、関西Aグループで4度目の優勝を果たした。

以後、しばらく同志社大学や京都産業大学に後塵を拝し関西Aグループでの優勝から遠ざかっていたが、2006年に久しぶりに全勝優勝した。また同年度の大学選手権でも久しぶりに準決勝に進出した。

2010年7月インペリアル・カレッジ・ロンドン英国)を招いて国際試合が行われた。また2011年4月人工芝ラグビー場の全面リニューアルを記念して「オール大体大vs現役チーム」のオープニングゲームが行われた。

2012年9月15日、坂田監督が2012年度のシーズンを最後に退任することが発表された。そして12月23日の大学選手権・セカンドステージ、対早稲田大学戦(近鉄花園ラグビー場)をもって坂田監督が退任した。

そして2014年度のリーグ戦で全敗し8位に終わり、入れ替え戦でも関西大学に敗れ、初めてBグループに降格した。

2017年度のリーグ戦で8勝1敗のBグループ1位となり、入れ替え戦でも摂南大学に勝ち、Aグループに昇格した。

2019年度のリーグ戦で8位に終わり、入れ替え戦でも関西大学に敗れ、再びBグループに降格した。

タイトル

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※年は全て年度。

主な在籍選手

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在籍した選手

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参考文献

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  • 「空飛ぶウイング―坂田好弘が駆け抜けた日本ラグビー黄金時代」(著者 村上晃一、出版社 洋泉社 (1999/09))ISBN 4896914139

脚注

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関連項目

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外部リンク

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