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天山陵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天山坂(ティンサンビラ)。天山陵への参拝路にちなむ坂。北緯26度13分12.51秒 東経127度42分55.35秒

天山陵(てんざんりょう[1]方言名:ティンサンリョウ[2])は、沖縄県那覇市首里池端町に所在する、第一尚氏王統・尚巴志の陵墓跡である[3]天山御墓(ティンサンウハカ)[4]天山ようどれ[4]、または単に天山(てんさん)[5]ともいわれ、第一尚氏の歴代の王も葬られたとされる[1]

立地

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那覇市の首里池端町と首里大中町、首里山川町の3町域にまたがる丘(天山、天山森とも[6])の南崖にあり、首里城の北西に位置し[5]、第二尚氏の陵墓「玉陵」とは約500メートル離れている[6]。天山陵への参詣路にちなんで名付けられた「天山坂(ティンサンビラ)」を下ると、「天山凝り(ティンサンゴーリ)」と呼ばれる窪地一帯が現れる[7]。「凝り(ゴーリ)」とは、「(水が)一か所に集まる」という意味の「凝ほり」を原義とし、地形を表す言葉へと変化したと思われる[8]

構造

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天山陵は、15世紀前半に南向きの崖面に造営された掘り込み墓で、東室・中室・西室の3室が存在していたとされる[4]。戦前までは、半洞穴の内部を切石積みで整い、中央に観音扉が設けられていた[6]。また、西室は前室と奥室があり、この2室を繋ぐアーチ状の石積み羨道があったという[6]東恩納寛惇の『南島風土記』(1950年刊行[9])によれば、「丘陵の中腹に2、3の古墳があり、遺骨は無く壙穴を残すのみである。」と記されている[10]1983年昭和58年)の沖縄県教育委員会による調査で、残存していた東室の遺構は、東側と南側の石積み、入り口の階段、そして蹴放し石と唐居敷、扉止め、羨道の一部などであった[11]。奥室入り口は、観音開きの石製扉があったと思われる[4]。発掘調査以前、天山陵付近で、溝の踏み板として用いられていた閃緑岩製の扉が発見され、それは沖縄県立博物館に保管されているが、このことから、天山陵に石製の扉が設置していたと考えられる[11]。後の第二尚氏初代の王となる尚円王の反乱により、天山陵は焼き討ちに遭ったと伝えられているが、1983年(昭和58年)の沖縄県教育庁文化課による発掘調査により、東室内部に焼け石や灰の堆積が確認され、この伝承を裏付ける証拠となった[5]

歴史

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「天山(沖縄方言でティンサン)」とは、「天斉山(てんせいざん[12])」の略称で、第一尚氏の国相[注 1]を務めた懐機によって名付けられたとされる[3]伊波普猷は天山陵を「天山のようどれ」と呼び、また、安里進は伊波がいうように「浦添ようどれ」や「佐敷ようどれ」と同様に「天山ようどれ」と呼称するのが妥当であると述べている[4]。第一尚氏が滅亡した後、第二尚氏の尚清王の五男である北谷(ちゃたん)王子[15]に下賜され、「天山御墓」と呼ばれ、その後も北谷家の墓として使用された[4]

1439年正統4年)、懐機が中国江西省の竜虎山張天師[注 2]に宛てた書簡(『歴代宝案』所収)には、尚巴志王の死去と、彼を天斉山に葬ったと伝えている[17]ことから、1439年にはすでに天山陵は造営されていたと思われる[4]。『南島風土記』によれば、「天山は泰山神、即ち東嶽帝の別名」とある[3]。ここで、「東嶽」とは中国五岳の一つで[3]、尚巴志王の死去の際、懐機は国都城外に葬って、「東嶽」に倣い「天斉山」と命名したとされる[16]。また、張天師に宛てた書簡にある「天齎」は、「天斉」の誤写ではないかとしている[18][19]長虹堤の完成後、懐機は天山陵の近くに居住し、死後は天山陵の脇に彼の墓が造られ、「坊主の墓(ボージヌハカ)」ともいわれた[3]1456年景泰7年)に琉球に漂着した朝鮮人2人は、1460年天順4年)に死去した尚泰久王の葬儀を実際に目撃したと思われ、『朝鮮王朝実録』に記された彼らの話から、尚泰久王は天山陵へ葬られたと考えられる[4]

天山陵が第二尚氏の尚円王による焼き討ちに遭う前に、尚徳王の近親者らは、王たちの遺骨を運びだしたとされる[1]。『中山世譜』によれば、天山陵が焼失した後、第二尚氏の一次的な陵墓として使用され、1637年崇禎10年)に尚永王の妃が、1663年康熙2年)に尚寧王の妃が葬られていた[20]。18世紀初期の『首里古地図』[4]には、「墓」という文字が記され、門が設置された石垣が見受けられ[2]、墓庭を石牆で囲っている[4]。また、1924年大正13年)に「墓 尚巴志王陵?(首里)」と題した伊東忠太スケッチは、天山陵の東室を描いたものと思われる[21]。『首里古地図』に描かれた天山陵は、戦前まで姿を保ち、墓庭は空き地のまま放置されていたが、沖縄戦で破壊された[5]

1983年(昭和58年)11月上旬、天山陵のある土地で家屋の建設計画があることが判明し、沖縄県教育委員会により、同月中旬から工事予定地の東室において急遽発掘調査を行った[6]。戦後、天山陵の土地所有者によれば、採石業者はダイナマイトを用いて、天山陵一帯の岩盤を破壊したという[22]。また、1984年(昭和59年)1月7日の沖縄県教育庁による調査で、宅地造成で破壊された天山陵の東室と中室があった場所は、戦後投棄された空き瓶や空き缶で埋もれており、天山陵の遺物は一切発見されなかった[22]。このことから、天山陵は戦後早期に破壊されたと思われる[22]。1983年(昭和58年)に天山陵の保護を要請したが[5]、東室は消滅し住宅地へと整備された[15]。同年に地主自身が西室近くで発見した、尚巴志の石棺台座が残存している[2][23]

第一尚氏の関係者と文化保護団体らは、再三にわたる要請を行ったが、文化財に指定されることはなく、天山陵は私有地となっている[1]2016年平成28年)現在、天山陵は一般に公開されていない[24]

脚注

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注釈

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  1. ^ 明の王相府に倣って設置された琉球王国の官職で、中国の帰化人を主に採用し、多くは外交事務に従事した[13]。琉球王国時代の役職の一つである摂政(せっせい)に相当する[14]
  2. ^ 歴代宝案』には、「天師府大人」とある[16]

出典

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  1. ^ a b c d 「天山陵と石棺の台座」、佐敷町文化財保護委員会編(1996年)、p.53
  2. ^ a b c 「天山陵」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.111上段
  3. ^ a b c d e 「天山陵」、久手堅(2000年)、p.216
  4. ^ a b c d e f g h i j 安里進「琉球王国の陵墓制 -中山王陵の構造的特質と思想-」、篠原編(2011年)、p.200
  5. ^ a b c d e 「天山」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.482
  6. ^ a b c d e 安里嗣淳・盛本勲「天山陵跡調査の概略」、沖縄県教育委員会文化課編(1984年)、p.13
  7. ^ 「天山坂と天山凝り」、久手堅(2000年)、pp.215 - 216
  8. ^ 「天山坂と天山凝り」、久手堅(2000年)、p.216
  9. ^ 主要文献解説「南島風土記」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.20
  10. ^ 「1-43-20 王相懐機より天師府大人あて、尚巴志の死を知らせ、世子尚忠と懐機に利益を願う書簡」、『歴代宝案』、pp.465下段 - 466上段
  11. ^ a b 安里嗣淳・盛本勲「天山陵跡調査の概略」、沖縄県教育委員会文化課編(1984年)、p.14
  12. ^ 嘉手納宗徳「「天山」を保存しよう」(沖縄タイムス1983年12月28日朝刊9面)、『沖縄タイムス縮刷版 昭和58年12月号』(1984年)、p.635
  13. ^ 糸数兼治「国相」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.102
  14. ^ 宮里朝光「摂政」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.571
  15. ^ a b 「天山陵墓の保存・保護について」、當真(1985年)、p.158
  16. ^ a b 「1-43-20 王相懐機より天師府大人あて、尚巴志の死を知らせ、世子尚忠と懐機に利益を願う書簡」、『歴代宝案』、p.465下段
  17. ^ 「天山」、琉球新報社編(1980年)、p.207
  18. ^ 「天山」、琉球新報社編(1980年)、p.208
  19. ^ 「1-43-20 王相懐機より天師府大人あて、尚巴志の死を知らせ、世子尚忠と懐機に利益を願う書簡」、『歴代宝案』、p.466上段
  20. ^ 「天山陵」、久手堅(2000年)、p.217
  21. ^ 安里進「琉球王国の陵墓制 -中山王陵の構造的特質と思想-」、篠原編(2011年)、p.201
  22. ^ a b c 「壊されていた 尚巴志の天山陵墓」(沖縄タイムス1984年1月8日朝刊13面)、『沖縄タイムス縮刷版 昭和59年1月号』(1984年)、p.195
  23. ^ 安里嗣淳・盛本勲「天山陵跡調査の概略」、沖縄県教育委員会文化課編(1984年)、p.15
  24. ^ 「天山陵」、古都首里探訪会編著(2016年)、p.50

参考文献

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  • 沖縄県教育委員会文化課編 『紀要 第一号』 沖縄県教育委員会文化課、1984年3月31日。
  • 沖縄大百科事典刊行事務局編 『沖縄大百科事典沖縄タイムス社、1983年5月30日。全国書誌番号:84009086
  • 沖縄タイムス社編集・発行 『沖縄タイムス縮刷版 昭和58年12月号』、1984年1月20日。
  • 沖縄タイムス社編集・発行 『沖縄タイムス縮刷版 昭和59年1月号』、1984年2月20日。
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会編 『角川日本地名大辞典 47.沖縄県』 角川書店、1986年7月8日。ISBN 4-04-001470-7
  • 久手堅憲夫 『首里の地名 - その由来と縁起 -』〈南島文化叢書 22〉 第一書房、2000年10月12日。ISBN 4-8042-0717-1
  • 古都首里探訪会編著 『王都首里見て歩き 御城と全19町ガイド&マップ』 新星出版株式会社、2016年3月31日。ISBN 978-4-905192-78-7
  • 財団法人沖縄県文化振興会公文書館管理部史料編集室編 『歴代宝案 訳注本第2冊 第一集巻二三 - 四三』 沖縄県教育委員会、1997年3月31日。
  • 佐敷町文化財保護委員会編 『第一尚氏関連写真集』〈佐敷町文化財 IV〉 佐敷町教育委員会、1996年3月31日。
  • 篠原啓方編 『陵墓からみた東アジア諸国の位相 -朝鮮王陵とその周縁-』〈周縁の文化交渉学シリーズ 3〉 関西大学文化交渉学教育研究拠点、2011年12月31日。ISBN 978-4-9905164-6-8
  • 當真荘平 『月代の神々』 印刷センター大永、1985年11月10日。
  • 平凡社地方資料センター編 『日本歴史地名大系第四八巻 沖縄県の地名』 平凡社、2002年12月10日。ISBN 4-582-49048-4
  • 琉球新報社編 『東恩納寛惇全集 7』 第一書房、1980年2月29日(1993年7月25日再版)。ISBN 4-8042-0057-6

関連項目

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外部リンク

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