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太常

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太常卿から転送)

太常(たいじょう)は、かつて中国にあった官職である。宗廟・礼儀・祭祀を管轄し、博士の考課を司った。

歴史[編集]

前漢[編集]

前身はの時代の奉常。漢の高祖(劉邦)の7年(紀元前200年)に年始の儀式を首尾よく取り仕切った叔孫通が太常に任命された[1]恵帝のとき奉常に名を戻した[2][3]景帝中6年(紀元前144年)2月にまた太常とした[4][5]

秩石は二千石[2][3]。補佐として太常丞が付いた[5]

漢書』「百官公卿表」によれば、属官には以下のものがある[3]

大楽は音楽、太祝・祠祀・廟祀は祝詞を述べ、太宰は供え物を用意し、太史は天文・記録、太卜は占い、太医は医療をつかさどる。均官と都水は分明ではないが、おそらく均官は物資の調達・販売、都水は陵の排水路の管理[6]。廟は亡くなった皇帝と一部の皇族を祀るために作られた施設、寝はその宮殿に擬した建物、園はそれら施設を囲む敷地で、それらを管理するのが廟令などである。食官は廟などの儀式の供え物を用意した。いずれも皇帝ごとに別々に置かれ、重要ならその長官が令、重要度が低ければ長官を長と称した。次官はどちらも丞である。孝恵寝丞、孝文園令など皇帝の号からとった名で史書に見えるが、封泥にみえる印には覇陵園丞など陵の地名からの名も見える[6]。廱は長安近郊の雍県をさし、そこにある五畤(五帝を祀る祭場)を祀るのが廱太祝、廱太宰である[7]。廱太祝が儀式で祝詞を述べ、廱太宰が供え物を用意した。

皇帝の陵に付属した長陵県覇陵県などの陵県も太常に属した[5]。「百官公卿表」によると、元帝永光元年(紀元前43年)に三輔に属するよう改めた[5]。永光4年(紀元前40年)とする説もある。

博士は秦以来の官で、多いときは数十人置かれた[5]

後漢以降[編集]

王莽が建てたでは、秩宗と称したが、後漢で太常に戻された[5]

定員1人で、秩禄は中二千石。丞1人を置き、秩禄は比千石。属官には以下のものがある(括弧内は秩禄。人数が書いていないものは定員無し)。

  • 太史令1人(六百。天文星暦と吉凶、記録を司る) - 太史丞1人 - 明堂丞(二百)、霊台丞(二百)各1人
  • 博士祭酒1人(六百。学問・掌故を掌り、祭祀の礼を議す) - 博士14人(比六百)
  • 太祝令1人(六百。国家祭祀に於いて祝詞を司る) - 太祝丞1人
  • 太宰令1人(六百。鼎や俎など膳立てに用もちいる道具の作成を統括し、祭祀の際に供え物を盛るための食器を陳列する) - 太宰丞1人
  • 太楽令1人(六百。国家の祭祀・大宴で奏楽を司る) - 太楽丞1人
  • 高廟令1人(六百。前漢の高祖・劉邦の廟を守衛し、巡察と清掃を担当する)
  • 世祖廟令1人(六百。後漢の世祖・光武帝の廟を守衛し、巡察と清掃を担当する)
  • 陵園令〔帝陵の数の人数〕(六百) - 丞、校長〔陵園令の人数×各1人〕
  • 陵食官令〔帝陵の数の人数〕(六百)

三国時代の各国、西晋でも引き続き太常は置かれている。呉 (三国)では三公に準ずるものとされた。

太常の人物[編集]

前漢[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『史記』巻99、劉敬叔孫通列伝第39。ちくま学芸文庫『史記』6の335頁。
  2. ^ a b 『唐六典』、巻14、太常寺。京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、「唐六典 30巻」、リンク先の309頁(Image 309 of 639)。
  3. ^ a b c 『『漢書』百官公卿表訳注』39頁注1。
  4. ^ 『史記』巻11、孝景本紀11、中6年。ちくま学芸文庫『史記』1の331頁。
  5. ^ a b c d e f 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』38頁。
  6. ^ a b 『『漢書』百官公卿表訳注』45頁注6。
  7. ^ 「百官公卿表」の顔師古注。『『漢書』百官公卿表訳注』45頁注7。
  8. ^ 『史記』巻99、劉敬叔孫通列伝第39。ちくま学芸文庫『史記』6の335 - 336頁。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • 神祇官 - 日本の律令制において太常に擬せられる。神祇官の唐名は太常寺であり、神祇伯の唐名は太常伯である。