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太楽令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

太楽令(たいがくれい)は、紀元前3世紀の前漢から14世紀のまでの中国に置かれた官職である。音楽を掌った。

概要

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祭祀・儀式で音楽を演奏するのが職務の中心だが、時代により、音楽に関する仕事を一手に引き受けたときと、他の官職と仕事を分担したときがある。他の主な音楽関連の官職には、楽府令(前漢)、協律都尉(前漢・後漢)、鼓吹令(南北朝時代から唐)、清商丞(南北朝時代から唐)、協律郎(南北朝時代から清)があった。

古い時代の中国では官庁の名を正式に定めず、太楽令を長とする官庁は太楽と呼ばれた。南北朝時代に官職と官庁を呼び分ける制度ができると、太楽署の長官が太楽令となった。次官は太楽丞である。それより下の部下は、時代により名前が異なり、また時代によってはまったく不明なこともあるが、身分が低い者も含めると数百から千人以上に達した。太楽令は、後漢で大予楽令、遼で太楽署令と、少し違う名になったこともある。

太楽令の上司は太常であった。官庁の名が定まったときからは、太常卿を長官とする太常寺の下に太楽署と太楽令が置かれる形になった。

明では音楽が太常寺の直轄になり、太楽令はなかった。清では楽部の下に神楽署神楽令を置いた。この神楽令を後身とみなしうるが、太楽令の名は元が最後となった。

変遷

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前漢は多くの制度をから継承しており、太楽令も秦にあった可能性がある。

前漢

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太楽令は初め奉常に属し、景帝中6年(紀元前144年)から、奉常の改称によって生まれた太常に属した[1]。副官として(太楽丞)が一人ついた[1]。かなり下った南北朝時代の言だが、前漢では太楽の伶官(音楽の官吏)が829人だったのを、孔光らの意見で定員388人にしたと言う[2]

前漢で音楽をつかさどる官職にはもう一つ、少府に属する楽府令があった。奉常は祭祀・儀式に、少府は皇帝の用に仕えたので、太楽と楽府の分担も同じであろう。武帝によって充実をみたが、宣帝以後の皇帝が楽府をたびたび減員し[3]哀帝のとき廃止になった[4]

後漢

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後漢にも太楽令があり、秩石は600石。丞が一人ついた[5]。ほかに25人の員吏がおり、その内訳は、2人が百石、2名が斗食、7名が佐、10人が学事、4名が守楽事であった[6]

『続漢書』百官志が記す職務は、国家的祭祀で音楽を演奏し、宮廷の饗宴で楽器を陳列することである[5]。後漢には楽府がないので、祭祀と宮廷で役所を分けることはなかった。

明帝は、予言書にもとづいて永平3年(西暦紀元60年)に太楽令を大予楽令と改称した[7][8]

三国時代の魏

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三国時代は、名を太楽令に戻した[9]。太楽令、太楽丞があった[10]

西晋・東晋

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晋(西晋)にも太楽令があり、太常に属した[11]。音楽の官として別に鼓吹令があった[11]

311年に都の洛陽が陥落し、西晋が滅亡すると、用いられなくなった伶官(音楽の官人)と楽器は失われた[12]。再興した東晋には伶人も楽器もなく、太楽令は省かれた[12]。その後、逃げてきた伶人を受け入れたり、捕虜として連れ帰ったりすることで、少しずつ充実し、咸和中(326年 - 334年)に、成帝がふたたび太楽の官を置いた[12]

南朝

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東晋を受けたにも太楽令があり、太楽丞が一人ついた[9]。音楽に関すること全般を掌った[9]。宋末の元徽(473年 - 477年)のころ、千人以上が属し、国力不相応だと後代に批判された[2]

にも太楽令と太楽丞が一人ずついた[13]。斉の武帝は奢侈で、太楽の人数が多かったという[14]

では、官庁の名と役職の名を明確に分けるようになり、太常卿の下に、太楽令と太楽丞があった[15]。音楽関連では他に鼓吹令があり、清商署という役所に清商丞をおいた[16]清商楽は比較的新しく生まれた音楽で、太楽は伝統的な音楽を演奏した。

にも太楽令があった[17]

北朝

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北魏では、太和15年(491年)12月、北魏の孝文帝の官制改革の一貫として、太楽が設置されたという[18]。しかしそれ以前から太楽の役人はいたようである[19]、太和の頃の官職一覧には、太楽祭酒(第六品中)、太楽博士(第六品下)、太楽典録(従第八品下)が見える[20]。かっこ内は官品。この一覧には太楽令、太楽丞が欠けている。

北斉では太常の下に太楽署があり、太楽令が長官、太楽丞が次官であった[21]。音楽関連では鼓吹署に鼓吹令がいて、太楽と並んだ[21]。また清商部があり、太楽令が長官を兼ね、清商丞が次官となった[21]

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では太楽署清商署鼓吹署があり、それぞれに長官の令と次官の丞がいた[22]。太楽令と太楽丞は2人のこともあった[22]。また、楽師が8人所属した[22]。清商の楽師は2人、鼓吹の哄師も2人なので、太楽のほうが多い[22]。太楽令の官品は正八品と定められていた[22]

煬帝のとき、前諸王朝の楽工の子弟と声調がよい人、あわせて300余人を太楽に付けた[23]

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唐では、太常卿を長官とする太常寺の下に太楽署鼓吹署があり、清商署はない[24]。太楽署の長である太楽令は従七品下、次官の太楽丞は従八品下[24]。他に府3人、史6人、楽正8人、典事8人、掌固8人、文舞郎と武舞郎が140人[24][25]。太楽令の職務は鐘律を調合し、国家の祭祀、饗宴に供することである[24][25]。『旧唐書』は太楽令の定員を1人、『新唐書』は2人とする[25]。また、『新唐書』は定員に散楽382人、仗内散楽1000人、音声人10027人を付け加える。

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の太楽令は、初め、唐と同様、太常寺に属したが、崇寧2年(1103年)または4年(1105年)に大晟府が音楽のために設けられ、そこに属することになった。崇寧2年改正の記述は『宋史』の職官志に、4年改正は『宋史』の本紀と楽志にあり[26][27]、年だけでなく内容も若干異なっている。崇寧2年改正の官制では、太楽令はなく、かわりに大晟楽令が設けられたことになっている[28]。崇寧4年改正の記述箇所では太楽令のままである[27]宣和2年(1120年[29]または宣和7年(1125年)12月[30]に大晟府は廃止された。

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には役所として太楽署があり、太常寺に属した[31]。長官は太楽署令といい、次官を大楽署丞といった[31]。他の音楽関係の官には、太楽署と並ぶ鼓吹署と、太常寺直属の協律郎があった[31]

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にも役所として太楽署があり、太常寺に属した[32]。太楽令が大楽署の長官で官品は従六品[32]。副として太楽丞(従七品)がつき、楽工部籍直長(正八品)、大楽正(正九品)、大楽副正(従九品)、楽工100人がいた[32]。太楽令は鼓吹署の令を兼任した[32]

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では、役所として太楽署があり、太常寺あるいは太常礼儀院に属した[33]。太楽署は世祖クビライ中統5年(1264年)に初めて設けたもので、定員2名の太楽令が長官となり、その官品は従七品。丞(従七品)1人がつき、礼生・楽工あわせて479戸を管掌した[33]

明と清

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明と清に太楽署・太楽令はなかった。

で音楽は太常寺の直接の管轄で、官職としては協律郎司楽があった[34]。明は北京と南京の二都を持ち、官庁・官吏も両方がもっていたので、協律郎と司楽も南北にいた[34]

には楽部という音楽の役所があって、通常他の高官の兼任となる典楽大臣が長となった[35]。楽部には神楽署があって、神楽令、神楽丞がいた[35]。別に、定員5人の協律郎、25人の司楽25人、180人の楽生がいた[35]

太楽令の人物

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前漢

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三国の魏

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南朝の宋

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南朝の斉

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南朝の梁

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南朝の陳

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北魏

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脚注

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  1. ^ a b 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』頁。
  2. ^ a b 『南史』巻47、列伝第37、崔祖思。
  3. ^ 『漢書』巻8、宣帝紀第8、本始4年。巻9、元帝紀第9、初元元年。ちくま学芸文庫『漢書』1の239頁、275頁。
  4. ^ 『漢書』巻11、哀帝紀第11、綏和2年。ちくま学芸文庫『漢書』1の333頁。
  5. ^ a b 『続漢書』(『後漢書』に合わさる)百官志2、太常。早稲田文庫『後漢書』志2の450頁。
  6. ^ 『後漢書』劉昭注が引く『漢官』。早稲田文庫『後漢書』志2の451頁。
  7. ^ 『後漢書』巻2、明帝紀第2、永平3年(早稲田文庫『後漢書』1の190頁。
  8. ^ 『後漢書』巻35。張曹鄭列伝第25、曹褒には「予楽」。
  9. ^ a b c 『宋書』巻39、志第29、百官上、太楽令。
  10. ^ 『三国志』魏書、巻29、方技伝第29、杜夔。
  11. ^ a b 『晋書』巻24、志第14職官、太常。
  12. ^ a b c 『晋書』巻23、志第13、楽下。
  13. ^ 『南斉書』巻16、志第8、百官、太常。
  14. ^ 『南史』巻42、列伝第32、斉高帝諸子上、豫章文献王嶷。
  15. ^ 『隋書』
  16. ^ 『隋書』巻26、志21、百官上、梁。
  17. ^ 『隋書』巻13、志第8、音楽上、陳、皇考高祖武皇帝神室奏武徳舞辞。
  18. ^ 『魏書』巻113、官氏志9第19職官。
  19. ^ 『魏書』巻198、楽志5第14。天興6年冬。
  20. ^ 『魏書』巻113、官氏志9第19職官。
  21. ^ a b c 『隋書』巻第27、志第22、百官中、後斉、太常。
  22. ^ a b c d e 『隋書』巻第28、志第23、百官下、隋、太常寺。
  23. ^ 『隋書』巻13、志第8、音楽上。
  24. ^ a b c d 『旧唐書』巻44、志第24、職官3、太常寺。
  25. ^ a b c 『新唐書』巻48、志第38、百官3、太常寺、太楽署。
  26. ^ 『宋史』巻20、本紀第20、徽宗、崇寧4年。
  27. ^ a b 『宋史』巻129、志第82、楽4。
  28. ^ 『宋史』巻121、職官8、合班之制。
  29. ^ 『宋史』巻164、志第117、職官4、太常寺、大晟府。
  30. ^ 『宋史』巻22、本紀第22、徽宗、宣和7年。
  31. ^ a b c 『遼史』巻54、志第23、楽志、雅楽。
  32. ^ a b c d 『金史』巻55、志第36、百官1、太常寺、太楽署。
  33. ^ a b 『元史』巻88、志第38、百官4、太常礼儀院。
  34. ^ a b 『明史』巻74、志第50、職官3、太常寺。および、巻75、志第51、職官4、南京宗人府、太常寺。
  35. ^ a b c 『清史稿』巻114、志89、職官1、楽部。
  36. ^ 『後漢書』巻28上、桓譚馮衍列伝第18上、桓譚。
  37. ^ a b 『隋書』巻15、志第19、音楽下、隋。
  38. ^ 『旧唐書』巻29、志第9、音楽2、估客楽。
  39. ^ 『旧唐書』巻29、志第9、音楽2、琵琶四絃。
  40. ^ 『旧唐書』巻29、志第9、音楽2、春江花月夜。
  41. ^ a b 『魏書』巻107、律暦志3上第8。
  42. ^ 『魏書』巻18、太部五王列伝第6、臨淮王譚。
  43. ^ 『魏書』巻109、楽志5第14。
  44. ^ a b 『旧唐書』巻30、志第10、音楽3、ただし、貞観は23年までなので、数字が誤っている可能性がある。
  45. ^ 『旧唐書』巻191、列伝第141、方伎、裴知古。
  46. ^ 『旧唐書』巻102、列伝第52、劉子玄。
  47. ^ 『旧唐書』巻29、志第9、音楽2、楽県。

参考文献

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