コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

太田朝敷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
太田朝敷
尚昌侯爵帰朝祝賀会。前列左2人目が太田、右隣は尚昌、その右隣は漢那憲和

太田 朝敷(おおた ちょうふ、1865年5月2日尚泰18年4月8日[1])- 1938年昭和13年)11月25日[2])は、沖縄新聞人政治家。慶應義塾で福沢諭吉の薫陶を受ける。琉球新報(戦前)の設立に参画し、のちに社長となる。また言論人としては沖縄県の本土への同化を強く唱えた。著書に『沖縄県政五十年』など。

来歴

[編集]

同化主義的言論

[編集]

太田は日清戦争で親中派の頑固党に対し、親日的開化党の立場で論陣を張り、その後、一貫して沖縄の本土への同化を強く訴えた[4][5]

太田は1900年の講演で「沖縄今日の急務は何であるかと云へば、一から十まで他府県に似せることであります。極端にいへば、クシャミすることまで他府県の通りにすると云う事であります」[6]と極端な同化主義を唱えている。

人類館事件への対応

[編集]

1903年、大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会の際、その周辺で「学術人類館」という見世物小屋が建てられ、琉球女性がアイヌ、台湾人、朝鮮人、中国人、インド人、ハワイ人などとともに「陳列」される事件が起こった。これに対し、朝鮮や中国の留学生が抗議の声をあげ、太田も琉球新報紙上で「隣国の対面を辱めるものである」と批判したが、一方で「琉球民族が生蕃(台湾高山族)やアイヌと同一視され、これ以上の侮辱はない」と差別意識丸出しの論評を行なった。[7]

記念切手のモデル

[編集]

琉球郵便1953年10月1日発行の新聞週間記念切手に太田の肖像があしらわれている。デザイン洋画家大城皓也[8]

脚注

[編集]
  1. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、449頁。
  2. ^ 沖縄コンパクト事典”. 琉球新報 (2003年3月1日). 2011年11月11日閲覧。
  3. ^ 沿革”. 琉球新報. 2011年11月11日閲覧。
  4. ^ 琉球新報
  5. ^ 石田正治 1999.
  6. ^ 杉山貴昭「沖縄のアイデンティティ 独立論・復帰論・反復帰論」より引用。なお太田の著作権は没後70年を経ており消滅。
  7. ^ 新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』編集工房東洋企画
  8. ^ 沖縄郵政管理事務所編『琉球郵政事業史』494ページ

参考文献

[編集]
  • 石田正治大田朝敷における愛郷主義とナショナリズム(一)」『法政研究』第66巻第3号、九州大学法政学会、1999年12月、41-88頁、CRID 1390853649684938496doi:10.15017/2164hdl:2324/2164ISSN 03872882 

関連文献

[編集]