孝安皇后
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陳皇后 | |
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明の皇后 | |
孝安皇后陳氏 | |
在位 |
隆慶元年1月27日 - 隆慶6年7月6日 (1567年3月7日 - 1572年8月13日) |
全名 | 陳香児 |
別称 |
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出生 |
不詳 順天府通州 |
死去 |
万暦24年7月13日 (1596年8月6日) 順天府、紫禁城 |
埋葬 | 昭陵 |
配偶者 | 隆慶帝 |
父親 | 陳景行(固安伯) |
母親 | 固安伯夫人張氏 |
孝安皇后(こうあんこうごう)は、明の隆慶帝の皇后。姓は陳、諱は香児[1]。
経歴
[編集]順天府通州の人。陳景行と張氏のあいだの次女として生まれた。嘉靖37年(1558年)9月、嘉靖帝に推挙されて裕王朱載坖(後の隆慶帝)にとつぎ、裕王妃(後妻)となった。男子を1人産んだが、夭折した。隆慶帝が即位すると、皇后となった。父の陳景行は固安伯に封じられた。
隆慶帝は女色に耽溺し、皇后と諍いを起こした。隆慶2年(1568年)から、陳皇后は危篤状態で病気療養中という理由をつけて別宮(咸安宮)に送られ、顔を合わせることもなくなった。幼年の皇太子(後の万暦帝、李皇貴妃の子)が代わりに嫡母のもとに通い世話をした。
隆慶6年(1572年)に隆慶帝が崩御の後、陳氏は李皇貴妃と共に皇太后となり、仁聖皇太后と呼ばれた。万暦24年(1596年)、崩じた。孝安貞懿恭純温恵佐天弘聖皇后と諡された。
子女
[編集]- 朱翊鈴 - 嘉靖41年(1562年)生没。靖悼王を追贈された。
伝記資料
[編集]- 『明世宗実録』
- 『明穆宗実録』
- 『国朝献徴録』
登場作品
[編集]脚注
[編集]- ^ 『康熙通州志』