孫皇后
表示
孫皇后 | |
---|---|
明の皇后 | |
孝恭章皇后孫氏 | |
在位 |
宣徳3年3月1日 - 宣徳10年2月8日 (1428年3月16日 - 1435年3月7日) |
別称 | 孝恭懿憲慈仁荘烈斉天配聖章皇后 |
出生 |
建文元年2月6日 (1399年3月13日) 済南府鄒平県 |
死去 |
天順6年9月4日 (1462年9月26日) 順天府、紫禁城 |
埋葬 | 景陵 |
配偶者 | 宣徳帝 |
子女 | 常徳公主、英宗 |
父親 | 孫愚(会昌伯) |
母親 | 会昌伯夫人董氏 |
孫皇后(そんこうごう)は、明の宣徳帝の皇后。孝恭章皇后(こうきょうしょうこうごう)の諡号を贈られた。
経歴
[編集]済南府鄒平県の人。永城従九品主簿の孫愚と董氏の娘。知的で容姿も美しかった。
永楽8年(1410年)、10代の時、太子妃張氏(後の誠孝皇后)の母の薦めで、太子(後の洪熙帝)の邸に入り、朱瞻基(後の宣徳帝)を見初め、互いに慕い合った。しかし永楽15年(1417年)、胡善祥が永楽帝に召されて朱瞻基の妃(正室)となり、孫氏は嬪(側室)となった。朱瞻基は孫氏を寵愛して、胡善祥をあまり寵愛しなかった。
洪熙帝が即位すると皇太子嬪に立てられ、宣徳帝が即位すると貴妃に立てられた。宣徳3年(1428年)、男子の朱祁鎮(英宗)を産んだ[1]。胡善祥は病の上に男子がないという理由で廃されて、清寧宮に移され、代わって孫氏が皇后に立てられた。孫愚は孫忠と改名して、会昌伯に封じられた。
宣徳10年(1435年)、英宗が即位すると、皇太后となった。正統14年(1449年)、英宗が土木の変で捕虜になると、景泰帝を擁立し、上聖皇太后と改称された。
景泰8年(1457年)、大議を裁決して、幽閉されていた英宗を立てて復辟させた。 天順6年(1462年)、崩じた。孝恭懿憲慈仁荘烈斉天配聖章皇后と諡された。
子女
[編集]- 常徳公主 - 薛桓に降嫁した。
- 朱祁鎮(英宗)
伝記資料
[編集]- 『明宣宗実録』
- 『明英宗実録』
脚注
[編集]- ^ 外史によると、宮人の子を取って自分の子として養った。
登場作品
[編集]- テレビドラマ
- 『女医明妃伝〜雪の日の誓い〜』(2016年、中国、演:何晴)
- 『大明皇妃 -Empress of the Ming-』(2019年、中国、演:タン・ウェイ)
- 『尚食〜美味なる恋は紫禁城で〜』(2022年、中国、演:ウー・ジンイエン)