孝潔皇后
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陳皇后 | |
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明の皇后 | |
孝潔粛皇后陳氏 | |
在位 |
嘉靖元年9月28日 - 嘉靖7年10月2日 (1522年10月17日 - 1528年10月14日) |
別称 | 孝潔恭懿慈睿安荘相天翊聖粛皇后 |
出生 |
正徳3年8月14日 (1508年9月8日) 大名府元城県 |
死去 |
嘉靖7年10月2日 (1528年10月14日) 順天府、紫禁城 |
埋葬 | 永陵 |
配偶者 | 嘉靖帝 |
父親 | 陳万言(泰和伯) |
母親 | 泰和伯夫人冀氏 |
孝潔皇后(こうけつこうごう)は、明の嘉靖帝の最初の皇后。姓は陳氏。
経歴
[編集]大名府元城県の人。生員の陳万言と冀氏のあいだの長女として生まれる。嘉靖元年(1522年)、張七姐(後に順妃、皇后となった)と文氏(後に恭妃となった)と共に、選抜されて後宮に入り、皇后に立てられた。父の陳万言は泰和伯に封じられた。
嘉靖7年(1528年)春、妊娠した。その後のある時、順妃と恭妃が皇后に茶を出した際に、嘉靖帝が彼女らの手をのぞいてきた。陳皇后は嫉妬し、茶碗を皇帝の前に投げて立ち去った。嘉靖帝も激怒して怒鳴った。陳皇后は驚愕し、嘉靖帝に地面に叩きつけられ、妊娠していた腹を激しく蹴られた[1]。その後流産した[2]。
嘉靖帝は流産した子を惜しみ、さらに激怒して陳氏の廃位を準備した[3]。陳氏は流産の後に体をこわしていたが、治療を拒否して、嘉靖7年10月2日(1528年10月14日)に亡くなった。
嘉靖帝は全て陳氏の過失と考え、陳皇后は天寿山(皇貴妃と皇太子の陵区)に葬られ、悼霊と諡された。嘉靖15年(1536年)9月、皇長女の常安公主と皇次子の荘敬太子朱載壡(長子の哀沖太子朱載基が夭折した後に立太子)が父嘉靖帝の恨みをしずめた。諡が孝潔と改められ、陳氏の親族を賞賜した。しかし3人目の皇后方氏(孝烈皇后)を葬る際、方氏に恩を感じていた嘉靖帝は方氏を最初の皇后の扱い(格上)とし、陳氏は後妻扱いとした。
隆慶帝が即位すると、孝潔恭懿慈睿安荘相天翊聖粛皇后の号を追贈され、永陵に改葬された。
脚注
[編集]- ^ “【明朝の冷血皇帝】 3人の美しい皇后が辿った悲劇的な最後”. 草の実堂 (2024年11月10日). 2024年11月11日閲覧。
- ^ 妊娠中の情緒不安定で、ヒステリーになったと思われる。
- ^ 楊一清『密諭録』
伝記資料
[編集]- 『明世宗実録』
- 『宛署雑記』