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宇都宮直賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宇都宮 直賢(うつのみや なおかた、1898年明治31年)1月9日[1][2] - 1997年平成9年)6月26日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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本籍鹿児島県[1][2][3]東京府鉄道省技師・宇都宮新の二男として生まれる[1]。加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる[1][4]。1925年(大正14年)4月から1926年(大正15年)3月まで東京外国語学校英語科で委託学生として学んだ[1]。 1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業した[1][2][3]

1930年12月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任[1]。1931年(昭和6年)9月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(米班)、参謀本部付(支那研究員、上海・香港駐在)、参謀本部付(上海武官補佐官)、陸軍省兵務局付(防諜班長)を務め、1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐に昇進[1][3]

1939年(昭和14年)3月、中支那派遣軍参謀(渉外部長)に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。同年9月、支那派遣軍参謀(渉外部長)に転じ、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に昇進[1][3]。同年7月、ブラジル大使館武官に発令され、1942年(昭和17年)8月に帰国[1][3]。同年9月、第14軍軍政監部総務部長兼同軍参謀に発令され、太平洋戦争に出征[1][2][3]。第14軍参謀副長兼フィリピン大使館付武官、南方軍参謀を経て、1944年(昭和19年)10月、第14方面軍参謀副長に転じ、1945年(昭和20年)3月、陸軍少将に昇進した[1][2][3]フィリピンの戦いを遂行し終戦を迎えた[2]。 1946年(昭和21年)12月に復員した[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

戦後、1949年(昭和24年)3月から1968年(昭和43年)4月まで在日米軍語学校の教官を務めた[1]

著作

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  • 『回想の山下裁判』白金書房、1975年。
  • 『南十字星を望みつつ : ブラジル・フィリピン勤務の思い出』宇都宮直賢、1982年。
  • 『黄河・揚子江・珠江』宇都宮直賢、1980年。
  • 『アメリカ"S"派遣隊』芙蓉書房、1983年。
監修
  • 『大日本帝国陸海軍 : 軍装と装備』潮書房、1973年。
訳書
  • ケン・ヘクラー著『レイマーゲン鉄橋 : ライン河渡橋作戦』〈ハヤカワ・ノンフィクション〉早川書房、1969年。
  • ジョン・ベダー著『空戦 : 山本長官ソロモンに散る』〈第二次世界大戦ブックス 6〉サンケイ新聞社出版局、1971年。
  • ヘンリー・I.ショー著『タラワ : 米海兵隊と恐怖の島』〈第二次世界大戦ブックス 7〉サンケイ新聞社出版局、1971年。
  • アーサー・スウィンスン著『シンガポール : 山下兵団マレー電撃戦』〈第二次世界大戦ブックス 12〉サンケイ新聞社出版局、1971年。
  • ドン・コンドン編『コンバット : 第二次世界大戦・ヨーロッパ戦域』白金書房、1974年。
  • ドン・コンドン編『コンバット2 : 第二次世界大戦・ヨーロッパ戦域』白金書房、1975年。
  • ジョン・ウィリアムズ著『フランス : ダンケルクへの敗走』〈第二次世界大戦ブックス 14〉サンケイ新聞社出版局、1978年。

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、25頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』128頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』440頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』437、440頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」185頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。