守内喜一郎
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守内 喜一郎 | |
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誕生 |
1882年2月11日 日本 石川県上新川郡下野村(現・富山県滑川市) |
死没 |
1950年3月26日(68歳没) 日本 富山県滑川町吾妻町(現・滑川市) |
職業 | 教育者、教育学者 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 広島高等師範学校本科英語部 |
代表作 |
『児童の生活形式』(1926年) 『協同社会教育の研究』(1934年) |
配偶者 | キヨ |
子供 | ユキ子(次女・占部実妻)、キヌ子(三女)、トシ子(四女)、ヨシ子(五女)、一郎(息子) |
守内 喜一郎(もりうち きいちろう、1882年(明治15年)2月11日 - 1950年(昭和25年)3月26日[1])は、日本の教育者。
経歴
[編集]石川県上新川郡下野村(現在の富山県滑川市)出身[1]。1908年(明治41年)、広島高等師範学校を卒業[2]。大分県師範学校教諭、京都府師範学校教諭、広島高等師範学校助教諭・訓導、同教諭・訓導、同助教授を歴任した[2]。奈良県女子師範学校校長、佐賀県師範学校校長を務めた後、1929年(昭和4年)に広島高等師範学校教授・附属小学校主事[2]、1943年(昭和18年)に千葉師範学校校長となった[3]。退官後は郷里滑川町の公民館長、教育長を務めた[1]。
著作
[編集]- 著書
- 『児童の生活形式』 明治図書、1926年10月
- 『協同社会教育の研究 : 我が国民教育の立場から』 明治図書、1934年11月
- 『現代教育学大系 各科篇第三巻 教科経営学概論』 成美堂書店、1937年11月
- 『現代教育思潮統一の研究』 目黒書店、1938年9月
- 『理論実践 国民学校の教育』 宝文館、1942年5月
- 訳書
- 『学校教育の倫理的心理的基礎及其実際』 フーゴー・ミュンシテルベルヒ原著、目黒書店、1916年5月
- 『民主主義教育への道』 目黒書店、1950年
- 編書
- 『八大詔勅と小学教育』 野沢正浩、三浦喜雄共編、目黒書店、1917年6月
脚注
[編集]- ^ a b c 東加積村誌 1955.
- ^ a b c 人事興信録 1934.
- ^ 大衆人事録 1943.
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版(下)』人事興信所、1934年。
- 「守内喜一郎先生」滑川市役所東加積出張所 編『東加積村誌』滑川市役所東加積出張所、1955年。
関連文献
[編集]- 中川信一 「すぐれた教育学者 守内喜一郎」(郷土のひかり編集委員会編 『郷土のひかり : 滑川の人物誌1』 滑川市教育委員会、1982年3月)
公職 | ||
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先代 太田章一 千葉県師範学校長 額田登 千葉県女子師範学校長 |
千葉師範学校長 1943年 - 1945年 |
次代 大岡保三 |
先代 鴫原篤二 千葉県立青年学校教員養成所長 |
千葉青年師範学校長 1944年 - 1945年 |
次代 鴫原篤二 |
先代 佐藤熊治郎 |
広島高等師範学校附属小学校主事 1929年 - 1943年 |
次代 森岡文策 |
先代 張二男松 |
佐賀県師範学校長 佐賀県実業補習学校教員養成所長 1927年 - 1929年 |
次代 山下直平 |
先代 安達常正 |
奈良県女子師範学校長 1923年 - 1927年 |
次代 立川伊三郎 |