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守内喜一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
守内 喜一郎
誕生 (1882-02-11) 1882年2月11日
日本の旗 日本 石川県上新川郡下野村(現・富山県滑川市
死没 (1950-03-26) 1950年3月26日(68歳没)
日本の旗 日本 富山県滑川町吾妻町(現・滑川市)
職業 教育者教育学者
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 広島高等師範学校本科英語部
代表作 『児童の生活形式』(1926年)
『協同社会教育の研究』(1934年)
配偶者 キヨ
子供 ユキ子(次女・占部実妻)、キヌ子(三女)、トシ子(四女)、ヨシ子(五女)、一郎(息子)
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守内 喜一郎(もりうち きいちろう、1882年明治15年)2月11日 - 1950年昭和25年)3月26日[1])は、日本教育者

経歴

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石川県上新川郡下野村(現在の富山県滑川市)出身[1]1908年(明治41年)、広島高等師範学校を卒業[2]大分県師範学校教諭、京都府師範学校教諭、広島高等師範学校助教諭・訓導、同教諭・訓導、同助教授を歴任した[2]奈良県女子師範学校校長、佐賀県師範学校校長を務めた後、1929年(昭和4年)に広島高等師範学校教授・附属小学校主事[2]1943年(昭和18年)に千葉師範学校校長となった[3]。退官後は郷里滑川町公民館長、教育長を務めた[1]

著作

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守内喜一郎
著書
訳書
編書

脚注

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参考文献

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  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第10版(下)』人事興信所、1934年。 
  • 「守内喜一郎先生」滑川市役所東加積出張所 編『東加積村誌』滑川市役所東加積出張所、1955年。 

関連文献

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  • 中川信一 「すぐれた教育学者 守内喜一郎」(郷土のひかり編集委員会編 『郷土のひかり : 滑川の人物誌1』 滑川市教育委員会、1982年3月)
公職
先代
太田章一
千葉県師範学校長
額田登
千葉県女子師範学校長
日本の旗 千葉師範学校長
1943年 - 1945年
次代
大岡保三
先代
鴫原篤二
千葉県立青年学校教員養成所長
日本の旗 千葉青年師範学校長
1944年 - 1945年
次代
鴫原篤二
先代
佐藤熊治郎
日本の旗 広島高等師範学校附属小学校主事
1929年 - 1943年
次代
森岡文策
先代
張二男松
佐賀県師範学校長
佐賀県実業補習学校教員養成所長

1927年 - 1929年
次代
山下直平
先代
安達常正
奈良県女子師範学校長
1923年 - 1927年
次代
立川伊三郎