守屋克彦
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守屋 克彦(もりや かつひこ、1934年9月26日[1] - 2018年11月1日[2])は、日本の元裁判官・弁護士・法学者。専攻は、刑事訴訟法・少年法[3]。東北学院大学教授。元仙台高等裁判所秋田支部長。東北大学で鴨良弼に師事。菊田クリミノロジー賞受賞[4]。
略歴
[編集]- 1934年 宮城県塩竈市生まれ
- 1953年 宮城県塩釜高等学校卒業
- 1956年 司法試験第二次試験合格
- 1958年 東北大学法学部卒業
- 1958年 司法修習生(第13期)
- 1961年 宇都宮地方裁判所兼宇都宮家庭裁判所判事補
- 1964年 東京地方裁判所兼東京家庭裁判所判事補
- 1967年 札幌地方裁判所兼札幌家庭裁判所室蘭支部判事補
- 1970年 東京家庭裁判所判事補
- 1971年 東京家庭裁判所判事
- 1973年 仙台家庭裁判所判事
- 1975年 仙台高等裁判所判事職務代行
- 1977年 仙台高等裁判所判事
- 1979年 青森地方裁判所兼青森家庭裁判所判事(部総括)
- 1985年 仙台地方裁判所兼仙台家庭裁判所石巻支部長
- 1989年 盛岡地方裁判所兼盛岡家庭裁判所判事(部総括)
- 1993年 仙台家庭裁判所判事
- 1993年 九州大学兼任講師(刑事法特殊講義)
- 1996年 仙台高等裁判所秋田支部長
- 1999年 弁護士登録(仙台弁護士会)
- 2000年 東京経済大学現代法学部教授(刑事法)
- 2004年 東北学院大学大学院法務研究科教授(刑事訴訟法・刑事実務)
- 2004年 東北大学法科大学院兼任講師(少年法)
- 2013年 刑事司法及び少年司法に関する教育・学術研究推進センター(ERCJ)理事長
主な担当裁判
[編集]- 岩手県種市町妻子5人殺害事件(1989年8月9日発生) - 第一審・盛岡地裁刑事部にて裁判長を担当[5]。検察官から死刑を求刑された被告人の男に対し、1990年(平成2年)11月16日に「妻子5人を道連れに自殺を図った無理心中事件であり、動機には情状酌量の余地がある」として無期懲役の判決を言い渡した[6]。その後、仙台高裁刑事第2部(渡邊達夫裁判長)は「無理心中ではなく、動機に酌量の余地はない」として原判決(守屋が担当した第一審判決)を破棄自判し[7]、被告人に死刑判決を言い渡した[8]。
著作
[編集]- 『裁判官と身分保障』(共著・勁草書房、1972年)
- 『少年の非行と教育―少年法制の歴史と現状』(勁草書房、1974年)ISBN 4-326-25007-0
- 『自白の分析と評価―自白調書の信用性の研究』(勁草書房、1988年、OD版2005年)ISBN 4-326-40124-9 ISBN 4-326-98040-0
- 『現代の非行と少年審判』(勁草書房、1998年)ISBN 4-326-40191-5
- 『刑事裁判の復興』(共著、勁草書房、1990年)ISBN 4-326-40141-9
- 『少年法と課題と展望 第1巻』(成文堂、2005年)ISBN 4-7923-1695-2
- 『少年法と課題と展望 第2巻』(成文堂、2006年)ISBN 4-7923-1696-0
脚注
[編集]- ^ 『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.199
- ^ 「訃報 守屋克彦さん 84歳=元仙台高裁秋田支部長、弁護士 /宮城」毎日新聞2018年11月4日地方版
- ^ 「日本国憲法を支える裁判官になりたい」法学館憲法研究所
- ^ 「守屋 克彦」researchmap
- ^ 『朝日新聞』1989年11月2日東京朝刊第12版岩手版第一地方面27頁「妻子五人殺し初公判 K、罪状認める 犯行前に日本酒七合」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
- ^ 『岩手日報』1990年11月16日夕刊1頁「種市の妻子5人殺害 K被告に無期判決 盛岡地裁 妻の「自殺考えた上での無理心中」」(岩手日報社)
- ^ 『朝日新聞』1992年6月5日東京朝刊第12版岩手版第一地方面27頁「種市の妻子5人殺人 『凶悪犯罪』と断罪 仙台高裁 一審破棄し死刑判決 『無理心中認めず』 被告側、上告の方針」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
- ^ 『岩手日報』1992年6月5日朝刊第4版1頁「種市の妻子5人殺し K被告に死刑判決 仙台高裁 無期懲役を破棄」(岩手日報社)