守山恒太郎
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京府 |
生年月日 | 1880年4月27日 |
没年月日 | 1912年2月12日(31歳没) |
選手情報 | |
ポジション | 投手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1966年 |
選出方法 | 特別表彰 |
この表について
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守山 恒太郎(もりやま つねたろう、1880年4月27日 - 1912年2月12日)は、東京都出身の野球選手。
経歴
[編集]ドロップボールを駆使して、「一高第二次黄金時代」の左投手として活躍した[1]。
1901年5月に横浜外国人チーム(横浜アマチュアクラブ)と対戦し5対6で敗れた。その後、制球力を向上させるため、一塁側グラウンドの後方にあったレンガ塀に5寸大の穴が開くまで投げ続けたり、投球練習中に痛めた左肘を治すため、校庭の桜の木に左手一本でぶら下がり伸ばすなど、校友会雑誌に「上野の杜にカラスの鳴かぬ日はあれど、守山の姿を運動場に見ざる日はなし」と書かれるほど猛練習に明け暮れた[1]。そして、横浜外国人チームと1年後に再戦し、4対0の完封勝利でリベンジしている。
その後は東京帝国大学医学部を卒業して軍医になるが、伝染病研究所で研究中に腸チフスに感染し、1912年2月12日に31歳で死去した[1]。
著書
[編集]- 『野球之友』民友社、1903年。国会図書館デジタルコレクション