安川寛三郎
安川 寛三郎(やすかわ かんざぶろう、1855年1月8日(安政元年11月20日[1][2])- 1926年(大正15年)7月22日[1][3][4])は、明治から大正期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、千葉県長生郡茂原町長。旧姓・横堀、幼名・篤造、号・雲山[1]。
経歴
[編集]上総国長柄郡茂原村[1](千葉県[3]長柄郡茂原町茂原、長生郡茂原町茂原[2][4]を経て現茂原市[1])で、横堀確三郎の三男として生まれる[1]。漢学を修めた[2][3][4][5]。その後、代々里正を務め[6]、醤油・酢製造業の酢屋当主[6]、茶園も経営していた[1][6]先代安川寛三郎の養子となる[1]。1879年(明治12年)養父の死去に伴い家督を相続し寛三郎を襲名した[1]。
家業を受け継ぎ、紅茶をイギリスに輸出するなど茶業経営に励んだ[1][5]。1884年(明治17年)茂原町用掛となり[1]、千葉県勧業諮問会員、長柄上埴生茶業組合委員長などを務め[1][5]、地域の茶業振興に尽力した[1]。
自由民権運動に加わり、長柄郡、上埴生郡に中和会を設立した[1]。茂原町会議員、長生郡会議員、同議長を務めた[2][3][4][5]。1889年(明治22年)5月、千葉県会議員補欠選挙で当選し1890年(明治23年)3月まで在任し[1][3]、長柄郡・上埴生郡の所得税調査員も務めた[1][3][4]。1892年(明治25年)4月から1893年(明治26年)10月まで茂原町長を務め[1][3][4]、小学校建設、茶業振興などに尽力した[1]。
1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、立憲政友会)で初当選[2][7]。第8回総選挙でも再選され[7]、衆議院議員に連続2期在任した[1][3][4]。
政界を引退後、北海道に移り面積数千町歩の開拓事業を行い、牧畜業、製材業を営んだ[1]。その後、郷里に戻った[1]。
国政選挙歴
[編集]- 第3回衆議院議員総選挙(千葉県第6区、1894年3月、自由党)次点落選[8]
- 第7回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、1902年8月、立憲政友会)当選[1][7]
- 第8回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、1903年3月、立憲政友会)当選[1][7]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 田中重策篇『新撰衆議院議員列伝』日本現今人名辞典発行所、1903年。
- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『長生郡人物誌』千葉県長生郡教育会、1926年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『千葉県議会史:議員名鑑』千葉県議会、1985年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。