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安藤重信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
安藤 重信
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 弘治3年(1557年
死没 元和7年6月29日1621年8月16日
別名 彦十郎、五左衛門(通称
戒名 栖岸院殿大誉良善大居士
墓所 東京都杉並区永福栖岸院
官位 対馬守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠
下総小見川藩主→上野高崎藩
氏族 三河安藤氏
父母 父:安藤基能、母:不詳
兄弟 直次重信次基
大久保忠豊の娘
本多正盛正室、松平成重継室
養子:重長[1]重元重矩
特記
事項
安藤家の家紋は、関ヶ原の戦い以降、下がり藤から上がり藤家紋に変更した。
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安藤 重信(あんどう しげのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名下総国小見川藩主、上野国高崎藩主。

生涯

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弘治3年(1557年)、安藤基能の子として三河国にて誕生した[2]徳川家康に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して西軍方の真田昌幸が守る信濃国上田城攻めに参加した。慶長16年(1611年)、秀忠付老中に任じられ、翌年12月には下総小見川に2万石の所領を与えられ、大名となった。慶長19年(1614年)、大久保忠隣改易された際、高力忠房と共に小田原城の受け取りを務めた。

同年の大坂の陣に参戦、夏の陣では大野治房率いる豊臣軍と戦ったが、敵の猛攻の前に敗退した。元和5年(1619年)、上野高崎5万6000石へ加増移封された。同年、福島正則が改易された際、広島城に向かい永井直勝戸川達安と共にその後の処理を担当した。

元和7年(1621年)6月29日、死去。享年65。家督は養子に迎えた外孫の重長が継いだ。

逸話

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怪力伝説があった。

  • 前述の広島城受け取りの際、船から落ちた供の者を掴んで助けた時に、少しつかんだだけで供の者のつかまれた部分が痣になって後々まで残った
  • 小姓に多くの鎧や銃を担がせ、その小姓を碁盤に乗せ、その碁盤を担いで城内を1周した。

系譜

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父母

正室

子女

養子

登場作品

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脚注

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  1. ^ 本多正盛の長男
  2. ^ コトバンク
  3. ^ 重長の同母弟
  4. ^ 安藤重長の異母弟