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宗義章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宗義章
宗義章像(養玉院蔵)
時代 江戸時代後期
生誕 文化14年11月26日1818年1月2日
死没 天保13年5月29日1842年7月7日
改名 彦満(幼名)、義章
戒名 兆徳院
墓所 長崎県対馬市厳原町国分の万松院
官位 従四位下右京大夫侍従対馬守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶
対馬府中藩
氏族 宗氏
父母 宗義質前田利謙娘喜久
兄弟 義章義和樋口鉄四郎室、島雄益城
樋口和理
毛利斉熙娘万寿子、こま(小野氏)
義和
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宗 義章(そう よしあや)は、対馬国府中藩14代藩主[1]

文化14年(1818年)11月26日、第13代藩主・宗義質の長男として生まれる。天保3年(1832年)12月、従四位下、右京大夫に叙位・任官された。この頃から病気がちであった父・義質の代理として藩政を執っている。天保9年(1838年)に父が死去したため、天保10年(1839年)2月2日に家督を継いで第14代藩主となり、侍従・対馬守に任官した。

しかし、家督相続から3年後の天保13年(1842年)5月29日に死去した。享年26。跡を弟で養子の義和が継いだ。

正室が長州藩主・毛利斉熙の娘であったことは、対馬府中藩の幕末に大きな影響を与えることになった。

系譜

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偏諱を与えた人物

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  • 樋口章貞(実弟、のちの宗義和、義章亡き後はその跡を継いで藩主となる)

脚注

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  1. ^ 宗義章 デジタル版 日本人名大辞典+Plus