宗義章
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宗義章像(養玉院蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化14年11月26日(1818年1月2日) |
死没 | 天保13年5月29日(1842年7月7日) |
改名 | 彦満(幼名)、義章 |
戒名 | 兆徳院 |
墓所 | 長崎県対馬市厳原町国分の万松院 |
官位 | 従四位下、右京大夫、侍従、対馬守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶 |
藩 | 対馬府中藩主 |
氏族 | 宗氏 |
父母 | 宗義質、前田利謙娘喜久 |
兄弟 |
義章、義和、樋口鉄四郎室、島雄益城、 樋口和理 |
妻 | 毛利斉熙娘万寿子、こま(小野氏) |
子 | 義和 |
宗 義章(そう よしあや)は、対馬国府中藩14代藩主[1]。
文化14年(1818年)11月26日、第13代藩主・宗義質の長男として生まれる。天保3年(1832年)12月、従四位下、右京大夫に叙位・任官された。この頃から病気がちであった父・義質の代理として藩政を執っている。天保9年(1838年)に父が死去したため、天保10年(1839年)2月2日に家督を継いで第14代藩主となり、侍従・対馬守に任官した。
しかし、家督相続から3年後の天保13年(1842年)5月29日に死去した。享年26。跡を弟で養子の義和が継いだ。
正室が長州藩主・毛利斉熙の娘であったことは、対馬府中藩の幕末に大きな影響を与えることになった。
系譜
[編集]偏諱を与えた人物
[編集]- 樋口章貞(実弟、のちの宗義和、義章亡き後はその跡を継いで藩主となる)