宗義誠
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄5年2月15日(1692年4月1日) |
死没 | 享保15年11月6日(1730年12月15日) |
改名 | 増之介(幼名)、氏江方誠(初名)、義誠 |
別名 | 式部(通称) |
戒名 | 大雲院殿玉橉高岳大居士 |
墓所 | 長崎県対馬市厳原町国分の万松院 |
官位 | 従四位下、侍従、対馬守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 対馬府中藩主 |
氏族 | 宗氏、氏江氏、宗氏 |
父母 | 父:宗義真、母:右門 |
兄弟 | 義倫、古川真言、義方、多田倫寛、義誠、方熈、高瀬行方、日野資成室、常、六、家ら |
妻 | 樋口真峯の娘竹 |
子 |
義如、義蕃、松平忠名正室、お升、 藤堂高治正室、方熈 |
生涯
[編集]元禄5年(1692年)3月15日、第3代藩主・宗義真の七男として生まれる。元禄16年(1703年)1月、兄で第5代藩主の義方より800石を与えられて別家の氏江家を興すとともに、義方より偏諱を賜って氏江方誠(みちのぶ)と称した。享保3年(1718年)、兄の義方が死去したため、その養子として家督を継ぎ、第6代藩主となり、宗義誠に改名。12月に従四位下、侍従・対馬守に叙位・任官された。
藩財政を再建するため、倹約令を出すなどしたが効果は無く、ますます財政難が促進された。享保15年(1730年)11月6日、嫡男・義如を伴って江戸へ赴く途上であったが、大坂で病に倒れて死去した。享年39。義如は若年だったため、弟の方熈が養子となって跡を継いだ。
系譜
[編集]- 父:宗義真(1639-1702)
- 母:右門、法性院 - 佐々木氏
- 養父:宗義方(1684-1718)
- 正室:竹、仙寿院 - 樋口真峯の娘
- 側室:間永氏
- 女子:藤堂高治正室
- 養子
- 男子:宗方熈(1696-1760) - 実弟
偏諱を与えた人物
[編集]義誠時代
- 古川誠恒(義誠の兄・古川真言の養子。また、娘の修性院は義誠の次男・義蕃の正室となる)