宮内翁助
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宮内翁助 みやうち おうすけ | |
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生年月日 | 1853年3月13日 |
出生地 |
日本 武蔵国埼玉郡江面村 (現埼玉県久喜市) |
没年月日 | 1912年12月6日(59歳没) |
前職 | 農業 |
選挙区 | 埼玉県全県選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 |
1902年8月 - 1903年12月11日 1908年5月 - 1912年5月14日 |
宮内 翁助(みやうち おうすけ、1853年3月13日(嘉永6年2月4日[1][2])- 1912年(大正元年)12月6日[1][3])は、日本の農業経営者、教育者、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]武蔵国埼玉郡江面村(のちの埼玉県南埼玉郡江面村、現:久喜市)で、宮内烈之助、きよ夫妻の長男として生まれる[1][2]。茅野金陵、中島撫山から漢学を学び[1]、1885年、神田秀親から田宮流剣道の免許皆伝を受けた[1]。農業を営む[3]。
戸長、副区長、学務委員、埼玉県会議員、同参事会員、所得税調査委員などを務めた[1][3]。1893年、中島端蔵(中島撫山の二男)とともに私費で私立専門学校・明倫館を開設し、のちに館長となり中等教育に尽力した[1][2][4]。
1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から出馬して当選[3]。第8回、第10回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた[3]。
実業界では、久喜銀行専務取締役、埼玉織布取締役を務めた[1][3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 埼玉県教育委員会編『埼玉人物事典』埼玉県、1998年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 人事興信所編『人事興信録』第3版、1911年。