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宮内翁助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮内翁助
みやうち おうすけ
生年月日 1853年3月13日
出生地 日本の旗 日本 武蔵国埼玉郡江面村
(現埼玉県久喜市)
没年月日 (1912-12-06) 1912年12月6日(59歳没)
前職 農業

選挙区 埼玉県全県選挙区
当選回数 3回
在任期間 1902年8月 - 1903年12月11日
1908年5月 - 1912年5月14日

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宮内 翁助(みやうち おうすけ、1853年3月13日(嘉永6年2月4日[1][2])- 1912年大正元年)12月6日[1][3])は、日本の農業経営者、教育者政治家衆議院議員

経歴

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武蔵国埼玉郡江面村(のちの埼玉県南埼玉郡江面村、現:久喜市)で、宮内烈之助、きよ夫妻の長男として生まれる[1][2]。茅野金陵、中島撫山から漢学を学び[1]1885年、神田秀親から田宮流剣道の免許皆伝を受けた[1]。農業を営む[3]

戸長、副区長、学務委員、埼玉県会議員、同参事会員、所得税調査委員などを務めた[1][3]1893年、中島端蔵(中島撫山の二男)とともに私費で私立専門学校・明倫館を開設し、のちに館長となり中等教育に尽力した[1][2][4]

1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から出馬して当選[3]第8回第10回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた[3]

実業界では、久喜銀行専務取締役、埼玉織布取締役を務めた[1][3]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『埼玉人物事典』772頁。
  2. ^ a b c 『人事興信録』第3版、み100-101頁。
  3. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』628頁。
  4. ^ 第65回 中島敦(なかじまあつし)の小説「斗南(となん)先生」”. 久喜市. 2021年2月11日閲覧。

参考文献

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  • 埼玉県教育委員会編『埼玉人物事典』埼玉県、1998年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第3版、1911年。