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宮崎八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮崎八郎
宮崎八郎
生年 1851年
生地 日本の旗 日本肥後国玉名郡荒尾村(現・熊本県荒尾市
没年 (1877-04-06) 1877年4月6日(26歳没)
没地 日本の旗 日本熊本県八代郡八代萩原堤(現・八代市
思想 自由民権運動
影響を受けたもの 中江兆民
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宮崎 八郎(みやざき はちろう、1851年嘉永4年)- 1877年明治10年)4月6日)は、肥後国出身の自由民権運動家。中江兆民との親交を重ね[1]、「九州のルソー」と呼ばれた[2]西南戦争西郷隆盛を支援し、26歳にして志半ばで戦死した。

生涯

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肥後国玉名郡荒尾村(現・熊本県荒尾市)の郷士宮崎政賢(宮崎長兵衛/長蔵)・佐喜夫妻の次男として生まれる。弟に宮崎民蔵宮崎彌蔵宮崎滔天がいた。父には山東家伝二天一流を弟たちとともに習っている。1864年(元治元年)元服長州征伐に父とともに従軍する。時習館に通う。1870年(明治3年)上京。1874年(明治7年)『征韓之議』を提出する。

ルソーの『社会契約論』の部分訳である中江兆民の『民約論』に影響を受ける。1875年(明治8年)4月26日、熊本県植木町に植木学校(校長は平川惟一、八郎は学務委員)を設立したが10月末で閉校する[1]。東京の評論新聞社に入社。1877年(明治10年)、鹿児島県西郷隆盛私学校西南戦争をおこすと、民権家同士と熊本協同隊を結成し2月21日に川尻で薩摩軍に合流、桐野利秋のもとで共に政府軍を相手に戦う。4月6日、熊本県八代郡八代萩原堤(現・八代市)で戦死。

伝記

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  • 上村希美雄『宮崎兄弟伝 日本篇』葦書房 上・下、1984年。全6冊
  • 山本博昭『近代を駆け抜けた男 宮崎八郎とその時代』書肆侃侃房、2014年

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b 上村希美雄『夢翔ける』荒尾市宮崎兄弟資料館、1995年、13頁。 
  2. ^ 宮崎滔天 三十三年の夢松岡正剛の千夜千冊、1168夜、2006年12月30日

外部リンク

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