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宮崎太郎

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宮崎重頼から転送)

宮崎 太郎(みやざき たろう、長承元年(1132年) - 建久6年(1195年))は、平安時代末期の越中国の武将。越中宮崎城主。「太郎」は長男を示す輩行名で、は「長康」とも「重頼」とも伝わる(「系譜をめぐる異説」参照)。木曾義仲に従い、倶利伽羅峠の戦いでは勝敗の決め手となった山岳夜襲戦法を献策した。

人物と事跡

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祖は藤原利仁とされる。『姓氏家系大辞典』では「利仁流藤原姓」として「齋藤、石黒、井口等と同族にして、越中国新川郡宮崎邑より起る」[1]。また『平家物語』長門本によれば、嫡子は入善小太郎為直、弟は別府次郎為重[2]

治承5年(1181年)、木曾義仲が横田河原の戦いに大勝すると、他の北陸道7か国の武将らとともに義仲軍に合流。寿永元年(1182年)には以仁王の遺児で、父王の死後、北陸道に逃れていた一の宮(世上、「北陸宮」の尊称で知られる[注 1])を宮崎の居館に招き、木曾義仲との対面を実現させた。また『源平盛衰記』では「高倉宮ノ御乳人讃岐前司重秀ガ此国ヘ具シ下シ進タリケルヲ木曾モテナシ奉テ越中国宮崎ト云処ニ御所ヲ造テスヘ進セ御元服アリケレバ」[3]としていて、同地に宮の行在所となる御所が造られたことを伝えている[注 2]

その後、寿永2年4月27日の燧城の戦いに宮崎党50余人を率いて参陣。5月2日の安宅の戦いで内兜を射ぬかれ、郎党とともに宮崎への帰還を余儀なくされた。しかし、それまで越後国国府に控えていた義仲が越中に進軍すると怪我を押して参陣、「二つもなき命を的に懸けて、大事の手を負て、已に死ぬべかりける人のよみがへりて、又鎧着て出給たるこそいとをしけれ」[2]と義仲を感激させたという。さらに倶利伽羅峠の戦いでは義仲に対し勝敗の決め手となった山岳夜襲戦法を献策したことが『平家物語』長門本に記されている。

……宮崎申けるは、誠に山の案内はいかで知らで候べき、此砺波山には三の道候なり、北黒坂、中黒坂、南黒坂とて三候、平家の先陣は中黒坂の猿が馬場に向へて候也、後陣は大野、今湊、井家、津幡、竹橋なんどに宿して候也、中の山はすいてぞ候らん、よも続き候まじ、南黒坂のからめては楯六郎親忠千騎の勢にてさし廻して、鷲が島うち渡りて弥勒山へ上るべし、中黒坂の大将軍は根井小弥太、千騎の勢にて倶利迦羅を廻りて、弥勒山へ打合せよ、北黒坂の大将は、巴といふ美女千騎の勢にて安楽寺を越て、弥勒山へ押寄て、三手が一手に成て鬨を作るならば、搦手の鬨はよも聞えじ、平家後陣の勢続きて襲と思ひて、後へ見返らば、白旗のいくらも有らんをみて、源氏の搦手廻りたりと心得て、あわてながら鬨を合候はんずらん、其時鬨の声聞え候はんずらん、其時搦手は廻りにけりと心得て、是より大勢に押寄に押寄すならば、前にはいかでよるべき後には搦手あり、逃べき方なくて、南の大谷へ向けて落候はんずらん、矢一射ずとも安く討んずるぞと申ける、木曾是を聞てあら面白や、弓矢取の謀はかくぞとよ、平家何万騎の勢有りとも、安く討ちてんずるな、殿原とて、宮崎が計ひに附きて搦手をぞ廻しける……
作者未詳、『平家物語』長門本巻第十三

倶利伽羅峠の戦いに大勝した木曾義仲は、7月28日には京に無血入城を果たし、都に源氏の白旗が翻った。しかし、その陣中に宮崎太郎の姿はなかった。『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』によれば「倶利伽羅峠の源平大合戦に勝利した後、宮崎太郎長康・宮崎党は、宮崎に帰った。その後の木曽義仲の京への進軍に参加した記録はなく、もっぱら、北陸宮の警護と京への上洛の準備に専念したものと考えられ、北陸宮の二度の上洛に随行したといわれている」。ただし、北陸宮の二度めの上洛は文治元年(1185年)11月のことで[注 3]、この際、宮崎太郎が随行したかどうかは定かではない。『姓氏家系大辞典』では「伊那の宮崎氏」として「義仲亡ぶるに及んで、逃れて信州に入り、伊那郡黒田村を押領して、此に居館を構へ、家号を以て在名を立てて地字を宮崎と称す」[1]としており、義仲敗死後に信濃国伊那郡に逃れたことを伝えている。また富山県黒部市にある宮崎文庫記念館が所蔵する「信州伊那の宮崎家系譜」にも同様の事実関係が記されている。なお、宮崎太郎の没年を建久6年(1195年)とするのは、同館所蔵の「史料年代表」による。

系譜をめぐる異説

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既述の通り宮崎太郎長康は義仲敗死後に信濃国伊那郡に逃れ、その地で亡くなったとするのが定説で、富山県朝日町昭和59年(1984年)に編纂した『朝日町誌 歴史編』によれば発祥の地である朝日町や嫡子とされる入善小太郎為直ゆかりの入善町にも「その実名を留めていないのみならず墓碑・供養塔も存在せず一族・縁者の末裔と伝える家もない」という。その一方で承久3年(1221年)の承久の乱では北陸道を経由して京をめざす北条朝時率いる幕府軍を越後と越中の国境で迎え撃った宮崎左衛門尉定範[注 4]という武将がいたことが『吾妻鏡[4]承久記[5]鎌倉北条九代記[6]などに記されている。

去ほどにしきぶのぜうとも時は、五月卅日えちごのこうに付てせいぞろへして、ゑちご・ゑつ中のさかいなるかんばらといふ所に付給ふ。この所こそ北ろく道第一のなんじよ、一はうはきしたかふして、人馬さらにとをらず。一方はあらいそにて風はげしければ、船心にまかせず。岸にそふたるほそみちは、わづかに馬一きとをりかぬるみちなり。市降・じやうどゝいふ所に、京がたよりさかも木を引て、みやざきさゑもん一千よきにてかためたり。うへの山にはいしゆみはりたて、かたきよせばはづしかけんとよういしたり。人々いかにとあんじける所に、しきぶのぜうのはかりごとに、いくらもありける牛をとらへて、角にたい松をゆいつけをひはなしたりければ、うし、たい松におそれてはしりとをる所を、上の山よりすはやかたきのよせくるはとて、いくばくのいしゆみを、一度にはつとはなしかけたりければ、おほくのうしどもころされけり。此はかりごとによて、兵どもいしゆみのなんをばのがれたり。さかも木どもをば、あしがるを入て取のけさせとをりけるほどに、六月八日のくれほどに、はんにやのにつき給ふ。
作者未詳、『承久軍ものがたり』巻第三

この宮崎左衛門尉定範について『朝日町誌 歴史編』では「長康家が木曽義仲の根拠地である信濃へ移ってから朝日町では宮崎村の定範家が有力者となっていた」として、長康家とは別流としている。その一方で『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』では「長野県篠ノ井長谷寺過去帳宮崎源家位牌等宮崎隆造とその家系図」として初代宮崎城主を「宮崎太郎重頼」とする家系図を紹介しており、その第2代を入善小太郎重房、第3代を宮崎定範としている。また宮崎文庫記念館・尊史庵でも「尊史庵(宮崎文庫)由緒」として「宮崎城主宮崎太郎重頼(当宮崎家の始祖)」としており、宮崎太郎長康と宮崎太郎重頼を同一人物と見なすならば、宮崎党は義仲敗死後も越中宮崎に留まり、承久の乱には朝廷軍の一員として参陣。この戦いに敗れた後、宮崎を離れたという解釈が成り立つ。ただし、宮崎太郎長康を初代宮崎城主とする「信州伊那の宮崎家系譜」との整合性など、検討すべき課題は多い。

なお、『朝日町誌 歴史編』が『南信伊那史料』[7]などを元に描き出す信州伊那の宮崎家の系譜は華麗とも峻烈とも呼び得るもので、初代長康の代に源平合戦を戦ったのを手始めに7代三郎太夫の代に至って時の執権北条高時の催促により六波羅に参陣し(元弘の乱)、光厳天皇を護衛して戦うも敗れて近江国馬場宿・米山の一向堂で自害[注 5]。さらに17代輝康の代には河内国烏帽子形を領していたとされるものの三好の変(永禄の変)で戦死、ここで長康家は断絶[注 6]。その一方で16代右馬允の次男・八郎が分家して忠房を名乗り、武田勝頼に臣従。長篠の戦いで弾丸に当り座光寺原宮崎の館で保養に務めるもほどなく戦病死。保養中、勝頼は宮崎の館に立ち寄り、鶴駿という名馬を賞与したという。さらに忠房家3代目に当る泰景は徳川家康に仕え[注 7]、従五位下筑後守に叙せられ秀忠から「忠」の字を賜り諱を忠政と改めたという。こうした赫々たる履歴がすべて事実とするならば、宮崎家は源家北条家武田家徳川家という日本を代表する名家に仕え、源平合戦、元弘の乱、永禄の変、長篠の戦いという日本史を彩る合戦を戦ってきたことになる[注 8]。その信憑性をめぐっては、他の史料によって裏付けられる部分も認められるものの、『朝日町誌 歴史編』が典拠とした『南信伊那史料』では初代長康について「同氏ハ日向国宮崎氏ヲ興シ後備中国ニ移リ源平蜂起ノ乱ニ木曾義仲ニ属シ」とするなど、史実と齟齬を来す内容も含まれており、慎重な検討が求められる[注 9]

墓碑・供養塔

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富山県朝日町城山の宮崎城跡に供養塔がある。これは、昭和45年(1970年)、朝日町が顕彰と観光開発のために北陸宮の御墳墓とともに築造したもの。昭和56年(1981年)7月8日には「北陸宮七五〇年祭・宮崎太郎長康公合同慰霊祭」が執り行われている。

また『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』 によれば、黒部市犬山に宮崎太郎重頼夫妻、宮崎定範夫妻の墓がある。

脚注

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注釈

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  1. ^ 他にも木曾宮、還俗宮、加賀宮、野依宮、嵯峨の今屋殿など、さまざまな尊称が伝えられている。
  2. ^ 北陸宮の越中滞在中の御所(仮宮)をめぐってはさまざまな説が取り沙汰されている。朝日町横尾にある脇子八幡宮の御由緒によれば、義仲は社殿近くに御所を造り、元服式を行ったとされる。また脇子八幡宮の奥宮のある城山の宮崎城跡に設置された石碑には「北陸宮が御神前で元服され、源義仲が武運長久の祈願をしたのはこの所」と記されており、御由緒が記す「社殿近く」とはこの奥宮の近くを指すと考えられる。さらに脇子八幡宮の宮司だった九里愛雄は「北陸宮御所阯」(『郷史雑纂』所収)で「宮崎城が築かれたとき、御所を本丸にあてた」としており、今日、本丸跡とされている場所を御所跡としている。これに対し、富山県埋蔵文化財センター所長などを務めた竹内俊一は「北陸宮御所の推定地」(『両越国境朝日町の山城 今よみがえる歴史の里』所収)で宮崎城跡とする説を否定した上で、立地条件などから朝日町笹川地区の「辻の内」地内を「第一の候補地にあげるより他にないだろうと思われる」としている。また『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』では元服式が行われたのも笹川地区にある諏訪神社であるとしている。これとは別に富山県黒部市にある宮崎文庫記念館・尊史庵では同記念館所在地を「北陸の宮を天皇推挙時まで秘護し奉った仮宮跡と伝承される」としており、いささか諸説紛々とした様相を呈している。
  3. ^ 北陸宮は上洛後、後白河法皇とともに法住寺殿に身を寄せていたものの、義仲が法住寺合戦に踏み切る前日の寿永2年11月18日に逐電。その後、文治元年11月になって源頼朝の庇護のもとに帰洛を果たしたことが九条兼実の日記『玉葉』に記されている。
  4. ^ 諱は「時政」とも「親成」とも伝わるものの、鎌倉幕府の公式記録とも言うべき『吾妻鏡』では「定範」とされている。また大正6年(1917年)に正五位を追贈された際も「定範」とされていた。
  5. ^ 群書類従』第514雑部69「近江国番場宿蓮華寺過去帳」に元弘3年5月7日(5月9日の誤り)、近江国馬場宿米山麓一向堂前合戦で討死・自害した430人の名前が列挙されており、「一向堂仏前自害」として「宮崎三郎恒則」「宮崎太郎次郎恒利」という名前が認められる。また『太平記』第9「越後守仲時已下自害事」にも同じく「宮崎三郎・同太郎次郎」という名前が認められる。
  6. ^ 足利季世記』第8巻「畠山昭高生害之事」に「此時河内烏帽子形ノ城ニ宮崎針大夫同鹿目助ト云者籠ケルヲ草部肥後守カ子ニ草部菖蒲助押寄急ニ攻ケレハ城ハ落テ宮崎ハ退キケルカ其夜ニ宮崎カ一類三宅志摩守椎井因幡守伊智地文太夫ヲカタラヒ夜討ニシテ烏帽子形ノ城ヲ取カエシ菖蒲カ首ヲ打取テ会稽ノ耻ヲ雪ケリ」との記載がある。ここに登場する宮崎針大夫・同鹿目助と宮崎輝康の関係は不明。
  7. ^ 寛永諸家系図伝』に記載あり。藤原氏支流とされ、「先祖日向の国宮崎郡に住するによりて称号とす」。また父・泰満は「武田信虎につかふ」、泰景も「信玄・同勝頼につかふ」とされていて、武田家に仕えていたことも謳われている。
  8. ^ さらに『寛永諸家系図伝』によれば、泰景の3子もそれぞれ徳川家に仕えており、次男・安重は「慶長五年、濃州関原御陣に供奉す」、三男・景次は「慶長五年、上杉景勝逆心のとき、台徳院殿(秀忠)に供奉し、宇都宮ならひに信州真田にいたる」。つまり関ヶ原の戦いにも参陣していたことになる。
  9. ^ 中村直勝は『日本古文書学』(角川書店1977年)で「三百大名の中で鎌倉時代以来の家柄と言えば薩摩の島津候位なものではあるまいか。/諸大名の中で、曲りなりにでも家系らしいもののあるのは、まだしもの方で、氏素性さえも怪しい諸侯の方が、多い」(下巻、1186p)と述べている。大名でさえそうなのだから、旗本クラスで平安時代以来の由緒を誇るというのはどうか。中村はまた「こうした家系の面目から、家系を飾る必要から、系譜の偽作ということがあったろうことは、無理からぬことである」(同)とも述べている。

出典

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  1. ^ a b 太田亮『姓氏家系大辞典』第6巻
  2. ^ a b 『平家物語』長門本第13巻
  3. ^ 『源平盛衰記』第15巻「宮御子達事」
  4. ^ 『吾妻鏡』承久3年6月3日
  5. ^ 『承久記』上巻
  6. ^ 『鎌倉北条九代記』「蒲原殺所謀付北陸道軍勢責登」
  7. ^ 佐野重直編『南信伊那史料』上巻「古跡名勝 第一 城砦舘宅陣屋関趾 下伊那ノ部」

参考文献

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  • 九里愛雄『郷史雑纂』馬鬣倶楽部、1942年4月。 
  • 竹内俊一『両越国境朝日町の山城 今よみがえる歴史の里』朝日町中央公民館、1998年3月。 
  • 木曽義仲・巴と宮崎太郎あさひ塾『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』富山県朝日町商工観光課、2013年11月。 

関連項目

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外部リンク

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