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宮薗千寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宮薗 千寿(みやぞの せんじゅ、宮薗千壽)は、宮薗節三味線方の名跡。代々宮薗節千寿派の家元

初代

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文化3年(1806年) - 明治元年(1868年))本名は里しま。

江戸日本橋の茶屋「宇治の里」の主人の里清三郎の妻。初代宮薗千之の門下。著書に当時の貴重な史料「宮薗千草種」(1861年)がある。

2代目

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生没年不詳)本名は梅田たづ。

江戸日本橋の生まれ、初代千寿の門下で一時廃業していたが後に復帰している。1907年頃に没したようである。

孫は新派俳優伊井蓉峰ともいわれる。

3代目

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明治16年(1883年10月25日 - 昭和39年(1964年7月25日)本名は鎗田ゆき。

東京の生まれ、2代目千寿門下の宮薗千春の門下で、1911年に宮薗千広、1948年に3代目千寿を襲名。河東節では山彦広子、荻江節では荻江ひろを名乗り素養があった。

1959年に病気の為に引退。大正末から昭和初期の名人。作曲には「お光」「椀久」など。

4代目

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(明治32年(1899年9月10日 - 昭和60年(1985年9月2日)本名は水野ハツ。

東京神田の生まれ、19歳で3代目千寿に入門し宮薗千幸を名乗る。引退していた3代目千寿から1959年に生前相続し4代目千寿を襲名。

1972年重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。1973年に勲五等宝冠章。