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富士信安

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

富士信安(ふじ のぶやす、生年不詳 - 宝暦10年5月18日1760年6月30日))は、江戸時代富士山本宮浅間大社の富士大宮司で、富士氏当主。

略歴

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始め山城守を称し、後に大隅守を称した。従五位以下。富士大宮司在任中に宝永大噴火が発生したため江戸幕府より祈祷が命じられ、公文・案主・別当らと祈祷を行った。この功により1707年宝永4年)12月18日に幕府より銀百枚を拝領している[1]。また1708年(宝永5年)には修造料として二千金を賜わっている[2]

天和3年(1683年)の『幕府裁許状』には四家合議制を取ることが記されているが、信安は合議制を経ず人事を決めたとして幕府より懲罰を受けている。結果、浅間大社の鎮座地である大宮を去ることとなった。しかしそれより三代後の富士大宮司である富士信栄の代に入ると、信栄の後見人・公文・案主・別当により追放を取りやめるよう寺社奉行所に申請がなされた。結果として大宮での居住は許され、富士郡大宮町黒田村に住むこととなり、生涯を終えたという[3]。戒名は眞學院殿隠光明徳大居士。

脚注・出典

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  1. ^ 間瀬久美子、「近世朝廷と寺社の祈禱 ―近世的七社七寺体制の成立と朝幕関係―」『千葉経済論叢 (58)』、2018
  2. ^ 浅間(1929) p.599
  3. ^ 浅間(1929) p.602

参考資料

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  • 浅間神社社務所『浅間神社の歴史』古今書院〈富士の研究〉、1929年。 
  • 富士宮市教育委員会、『元富士大宮司館跡』、2000年