寒河江宗広
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墓所(法泉寺) | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 永正元年7月1日(1504年8月10日) |
改名 | 法名:法泉寺殿悦巌喜公大居士 |
別名 | 太郎四朗 |
墓所 | 法泉寺(山形県寒河江市) |
官位 | 左京大夫、左近大夫将監、因幡守 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 大江氏親広流寒河江氏 |
父母 | 父:寒河江知広、母:不詳 |
兄弟 | 宗広、宗綱、広直、中野氏妻、竹姫 |
妻 | 正室:高松寺高月桂公大禅定尼、側室:山辺刑部女 |
子 | 孝賢、祥真、男、男、広種、孝広、高屋知政妻、山野辺直広妻、中野氏妻 |
寒河江 宗広(さがえ むねひろ、旧字体:宗廣)は戦国時代の武将。寒河江氏14代。寒河江城主7代。
生涯
[編集]寒河江知広の長男として生まれ、明応3年(1494年)父の死により寒河江氏を継いだ。同年最上満氏も死去し最上義淳が跡を継ぎ[1]、伊達尚宗は領内の騒乱のため蘆名氏のもとへ逃れている。
寒河江知広が二親供養のために建立した長州大寧寺子院澄江院を寒河江に移し、瑞龍山澄江寺とした。自らの側室を山野辺氏から受け入れるとともに、娘を山野辺氏、中野氏(中野義清[2])に嫁がせ姻戚関係を結んだ。なお、姉妹も中野義建[3]に嫁いでいる。
同時期に当主となった羽州探題最上義淳が左衛門佐(従五位上相当)であるのに対して、左京大夫(従四位下相当)を称した。
永正元年(1504年)7月1日に没すると、正室の子孝広が幼少であったため後継を巡って家中が乱れた。同年最上義淳も死去し、跡を継いだ最上義定の侵攻を招いた。
系譜
[編集]周辺系図
[編集]寒河江知広(13) | 寒河江宗広(14) | 孝賢 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗綱 | 祥真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広直 | 広種(16) | 兼広(17) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
孝広(15) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高屋知政妻 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
娘[6] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女[6] | 山野辺直広妻 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中野義清 | 中野義政 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最上義淳 | 中野義健 | 山野辺直広 | 娘 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
最上義定 | 最上義守 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伊達尚宗 | 娘 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伊達稙宗 | 伊達晴宗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 『山形市史 史料編一 最上氏関係史料』
- ^ 最上義建の子。胡偉権「山形最上氏と中野氏・寒河江大江氏―義光のゆかりを探る」
- ^ 最上義淳の次男
- ^ 「寒河江町誌」によれば、高松寺は法泉寺三世漢室宗銀の開山。文亀2年(1502年)創建。後に兵火に遭い顔好(大江町)に再建されるが、江戸時代に火災にあって本郷村葛沢に移転した。(「寒河江市史編纂叢書第5・6集」pp.18)
- ^ 楯岡満茂祖父。
- ^ a b 胡偉権「山形最上氏と中野氏・寒河江大江氏―義光のゆかりを探る」
関連資料
[編集]- 寒河江市史編纂委員長 阿部酉喜夫『寒河江大江氏』、1988
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』、1994
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001