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寺崎城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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寺崎城
千葉県
寺崎城
寺崎城
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 千葉輔胤?
遺構 土塁、櫓台
指定文化財 なし
位置 北緯35度42分27.0秒 東経140度12分35.8秒 / 北緯35.707500度 東経140.209944度 / 35.707500; 140.209944座標: 北緯35度42分27.0秒 東経140度12分35.8秒 / 北緯35.707500度 東経140.209944度 / 35.707500; 140.209944
地図
寺崎城の位置(千葉県内)
寺崎城
寺崎城
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寺崎城(てらさきじょう)は、千葉県佐倉市寺崎にあった日本の城

歴史

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千葉城を追われた千葉氏本佐倉城に移るまでの一時期、居城したといわれる城である。

城跡とされる密蔵院の境内に設置された石碑によると、自刃した千葉胤直の嫡子胤将が諸々に逃れ、寺崎に城を築いて居城したとある。

一方、「七仏薬師如来由来記」には、「千葉之介輔胤、上総寺崎より千葉郡平山の郷に来りて住居す。(中略)後、勝胤、佐倉根小屋の城に入る」とあり[1]、「上総」は「下総」の誤記だと考えられている。

また、「千学集抜粋」によれば、「康胤御子胤持輔胤孝胤勝胤まで以上5世は平山に在しければ、平山よりご参詣在りて、妙見宮にて御元服也。(中略)屋形様千葉より平山へ御越し、又長崎へ移らせらる。孝胤(中略)平山に居り佐倉へ御上り也」とあり[2]、「長崎」は「寺崎」の誤記だと考えられている。

構造

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土塁、櫓台のようなものが一部残るが、全体の構造は不明である。「日本城郭大系」には、「寺崎地区には城址らしいものがなく」「寺崎城というのは用替ヶ丘砦(太田用替城)のことではないか」と書かれており[3]、本当に密蔵院のある場所が城跡なのかどうか、判然としない部分もある。

アクセス

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脚注

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  1. ^ 「七仏薬師如来由来記」
  2. ^ 「千学集抜粋」
  3. ^ 『日本城郭大系6』 新人物往来社 P100

外部リンク

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