専称寺 (加賀市)
専称寺 | |
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所在地 | 石川県加賀市大聖寺鉄砲町33 |
位置 | 北緯36度18分14.7秒 東経136度18分52.9秒 / 北緯36.304083度 東経136.314694度座標: 北緯36度18分14.7秒 東経136度18分52.9秒 / 北緯36.304083度 東経136.314694度 |
山号 | 龍華山 |
宗派 | 真宗本願寺派[1] |
本尊 | 阿弥陀如来[1] |
中興年 | 承元元年(1207年) |
中興 | 親光 |
法人番号 | 1220005004007 |
専称寺(せんしょうじ、専稱寺)は、石川県加賀市大聖寺鉄砲町33にある真宗本願寺派の寺院[1]。山号は龍華山[1]。本尊は阿弥陀如来[1]。鉄砲町の南部にある[1]。河崎専称寺と呼ばれることもある。
歴史
[編集]中世
[編集]天台宗の龍華院として創建された[1]。承元元年(1207年)に親光が親鸞聖人に帰依して浄土真宗に改宗し、専称寺の開基となった[1]。親光以後、2世信光、3世光清、4世玄光、5世恵光、6世巧光、7世寿光と続いた[2]。
寺伝によると、8世真光の時の文安5年(1448年)、越中国礪波郡野尻郷河崎村(現・富山県南砺市福野)から加賀国江沼郡山代庄(現・石川県加賀市)に移った[1]。翌年の宝徳元年(1449年)11月18日、真光の時に存如から親鸞聖人の絵伝が下付された[1]。早くから有力な寺院であったとされ、15世紀中ごろには西本願寺派(後の本願寺派)であることを明確にしていたとされる[2]。檀家は大聖寺に最も多かったが、菅谷、山代、黒瀬、河崎、栄谷などにも10軒以上あり、大聖寺川の中流域におよんでいた[2]。
真光の時に真宗高田派の焼き討ちに遭ったとする説があるが[1]、『加賀市史』は「事実とみなす訳にはいかない」として否定している[2]。本願寺の内紛である享禄・天文の乱の際には、賀州三ヶ寺側に付いたことで粛清を受けた[2]。越前国金津(現・福井県あわら市)に退転し、その後9世順光と10世祐光は菅谷(現・加賀市山中温泉)に住んだが、11世正智は七日市(現・加賀市)に住んだ[2]。勝光寺、専光寺、願成寺なども専称寺と同様に退転を余儀なくされている[2]。
近世
[編集]12世正芸の時、文禄元年(1592年)に七日市から河崎に戻り、准如から顕如御影の下付を受けた[2]。寛永16年(1639年)に大聖寺藩が成立すると城下に寺地を与えられ[2]、寛永17年(1640年)ごろに鉄砲町の現在地に移った[1]。専称寺は江沼郡における六日講の中心であった[1]。15世観梅は「雪女化生問答」を著すなどして民衆の教化に努めた[2]。江戸時代には観梅から5代に渡って触頭を務めた[1]。
境内
[編集]- 本堂
- 山門
- 蔵
- 冝英先生之墓
-
山門
-
蔵
文化財
[編集]県指定文化財
[編集]- 絹本著色親鸞聖人絵伝 附宝徳元年裏書
歴代住職
[編集]- 越中国時代
- 1世 親光
- 2世 信光
- 3世 光清
- 4世 玄光
- 5世 恵光
- 6世 巧光
- 7世 寿光
- 加賀国時代
- 8世 真光
- 9世 順光
- 10世 祐光
- 11世 正智
- 12世 正芸
- 13世 祐光 - 貞享3年(1686年)7月8日死去[4]。
- 14世 祐西 - 元禄7年(1694年)11月11日死去[4]。
- 15世 観海 - 宝暦3年(1753年)9月3日死去[4]。
- 16世 龍智 - 宝暦14年(1764年)4月17日死去[4]。
- 17世 離方 - 寛政6年(1794年)7月13日死去[4]。
- 18世 宗真
- 19世 宗学 - 1875年(明治8年)5月26日死去[4]。
- 20世 宗要 - 1882年(明治15年)住職を辞す[4]。
- 21世 宗薫
現地情報
[編集]- 所在地
- 交通アクセス