小原義之
小原義之 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 滋賀県 |
生年月日 | 1971年8月27日(53歳) |
身長 | 163cm |
体重 | 48kg |
血液型 | A型 |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会(JRA) |
所属厩舎 |
栗東・増本豊(1990 - 1993) 栗東・フリー(1993 - 1996) 栗東・小原伊佐美(1996 - 2009) |
初免許年 | 1990年3月3日 |
免許区分 | 平地・障害 |
騎手引退日 | 2009年12月20日 |
重賞勝利 | 4勝 |
通算勝利 | 3456戦199勝 |
小原 義之(おばら よしゆき、1971年8月27日 - )は、滋賀県出身の現調教助手・元騎手。
騎手免許は平地・障害両方の免許を所持していたが、障害での騎乗経験はなかった。
来歴
[編集]1990年3月3日に栗東・増本豊厩舎からデビューし、中京第1競走アラブ4歳以上400万下・アップワン(13頭中8着)で初騎乗を果たすと、同日の第5競走4歳以上500万下をルイテイトで逃げ切って初勝利を挙げた。夏は北海道シリーズに参戦し、札幌記念・イチアヤヒデ(14頭中11着)で重賞初騎乗を果たすと、セイユウ記念ではハクサンツバメで2着に逃げ粘った。5月19日の阪神では初の1日2勝、10月13日の京都では初の1日3勝、12月15日と翌16日の京都では初の2日連続勝利を挙げる。1年目の1990年から2桁の23勝をマークするが、20勝台は同年が唯一でキャリアハイとなった。
1993年まで4年連続2桁勝利を記録し、同年からはフリーとなり、ホクセイアンバーと共にローカルの中長距離戦で活躍。昇級2戦目の明石特別(900万下)を8馬身差で圧勝すると、夏は札幌で降級初戦の支笏湖特別(900万下)を2馬身差で快勝。続く札幌記念は7着、小倉記念では6着に敗れる。小倉記念は勝負所の不利が大きく、続く朝日チャレンジカップ4着で、重賞でも好勝負できる能力があることを証明[1]。1994年の小倉記念では「無理せず中団から」という指示を父・小原伊佐美調教師から受け、落ち着いた騎乗振りで指示通りに中団を追走。3コーナーでうまく内に入ると、勝負所を迎えて反応が鈍くなりかけたホクセイアンバーを叱咤激励して直線へと入る[1]。最内にホクセイアンバー、中にメモリータイヨウ、外にイブキファイブワンの激しい追い比べとなり、ホクセイアンバーは態勢的に苦しくなるが、馬体を併せてからの強さという真骨頂を見せる[1]。イブキファイブワンも最後まで懸命に追いすがったが、ホクセイアンバーがアタマ差のリードを守り切り、人馬共に重賞初制覇を飾る。小原はホクセイアンバーの勝負根性を信じ、落ち着いた騎乗で直線の叩き合いをしのぎ切った[1]。
1996年からは小原厩舎所属となり、札幌記念ではダイタクサージャンでマーベラスサンデー・マイヨジョンヌに次ぐ3着に入るが、同年唯一の重賞騎乗となった。1997年から2001年には5年連続2桁勝利を記録し、1997年には5月19日の笠松第8競走初夏特別・ダイゴパワー(10頭中9着)て地方初騎乗を果たす。9月14日の札幌第6競走4歳以上500万下をミカマンリーで逃げ切り、中央通算100勝を達成。1998年のウインターステークスでは9頭中8番人気のウッディーナイスでマチカネワラウカド・エムアイブランに次ぐ3着に入り、1999年にはダイヤモンドステークスをタマモイナズマで逃げ切って5年ぶりの重賞制覇を飾ると、同年の天皇賞(春)でGI初騎乗を果たす。2001年には5月9日の名古屋第10競走名古屋チャレンジカップジュピター賞・ユーコーフォエバーで地方初勝利を挙げ、同じく父・伊佐美もこの競走で管理馬の地方初勝利を挙げた。京都大賞典ではホワイトハピネスでステイゴールド失格による繰り上がりで3着となり、同年の11勝が自身最後の2桁となった。2002年には小倉大賞典を13番人気のタマモヒビキで3年ぶりの重賞制覇を飾り、札幌2歳ステークスではテイエムリキサンでサクラプレジデントに3/4差迫る2着とした。
2002年からは1桁台が続き、2008年にはマーチステークスをナナヨーヒマワリで制して6年ぶりの重賞制覇を飾るが、小原親子にとって最後の重賞制覇となった。2008年11月23日の京都第5競走メイクデビュー京都2歳新馬でサイタに騎乗するが、レース中に転倒したセイウンアレースに接触して落馬[2]。サイタの後ろを走っていたリベラルランスルーに蹴られ、その後の診断で肝損傷・肺挫傷の重傷を負った[2]。約1か月の入院[3]を経て調教騎乗に復帰すると、2009年1月11日から1鞍限定でレースへの騎乗を再開し、驚異の回復力を見せた[4]。3月28日の阪神第1競走3歳未勝利を15頭中10番人気のマルサンメインで逃げ切って199勝目を挙げ、中央通算200勝に王手をかけるも、結局これが最後の勝利となった。6月2日から同24日にかけては研修でイギリス、アイルランドに行ったが[5]、11月1日の京都第10競走西陣ステークス・アートオブウォー(16頭中5着)を最後に騎乗もなくなり、12月20日をもって現役を引退。
引退後は小原厩舎の調教助手に転身し、2014年には伊佐美の勇退により、新たに開業した石橋守厩舎に移籍。芹沢純一と共に調教専門の調教助手を務めている[6]。
騎乗成績
[編集]日付 | 競馬場・開催 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
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初騎乗 | 1990年3月3日 | 1回中京1日1R | アラ3歳上400万円下 | アップワン | 13頭 | 4 | 8着 |
初勝利 | 1990年3月3日 | 1回中京1日2R | 4歳上500万円下 | ルイテイト | 16頭 | 1 | 1着 |
重賞初騎乗 | 1990年7月1日 | 1回札幌8日11R | 札幌記念 | イチアヤヒデ | 14頭 | 13 | 11着 |
重賞初勝利 | 1994年8月14日 | 4回小倉2日11R | 小倉記念 | ホクセイアンバー | 8頭 | 3 | 1着 |
GI初騎乗 | 1999年5月2日 | 3回京都4日11R | 天皇賞(春) | タマモイナズマ | 12頭 | 8 | 12着 |
年度 | 1着 | 2着 | 3着 | 騎乗数 | 勝率 | 連対率 | 複勝率 |
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1990年 | 23 | 16 | 30 | 283 | .081 | .137 | .243 |
1991年 | 16 | 9 | 15 | 191 | .083 | .130 | .207 |
1992年 | 12 | 13 | 16 | 198 | .060 | .126 | .206 |
1993年 | 15 | 11 | 21 | 240 | .063 | .108 | .196 |
1994年 | 8 | 16 | 15 | 212 | .038 | .113 | .183 |
1995年 | 6 | 7 | 12 | 196 | .031 | .066 | .128 |
1996年 | 7 | 9 | 14 | 185 | .038 | .086 | .162 |
1997年 | 16 | 10 | 9 | 199 | .080 | .131 | .176 |
1998年 | 11 | 12 | 17 | 184 | .059 | .124 | .216 |
1999年 | 18 | 16 | 19 | 193 | .093 | .175 | .273 |
2000年 | 14 | 16 | 11 | 192 | .073 | .156 | .214 |
2001年 | 11 | 13 | 18 | 200 | .055 | .119 | .209 |
2002年 | 8 | 12 | 16 | 185 | .043 | .106 | .191 |
2003年 | 9 | 10 | 12 | 178 | .051 | .107 | .174 |
2004年 | 8 | 8 | 11 | 163 | .049 | .098 | .165 |
2005年 | 3 | 10 | 11 | 152 | .020 | .086 | .158 |
2006年 | 5 | 2 | 3 | 106 | .047 | .066 | .094 |
2007年 | 3 | 8 | 3 | 80 | .037 | .138 | .175 |
2008年 | 5 | 3 | 4 | 73 | .068 | .110 | .164 |
2009年 | 1 | 0 | 2 | 34 | .029 | .029 | .88 |
中央 | 199 | 201 | 259 | 3456 | .058 | .116 | .191 |
地方 | 2 | 1 | 2 | 17 | .118 | .176 | .294 |
主な騎乗馬
[編集]関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d ホクセイアンバー(平成6年 小倉記念)
- ^ a b 馬三郎タイムズ コラム | 命懸けの職業だと改めて実感
- ^ 馬三郎タイムズ コラム | 馬三郎25時 復帰まで温かく見守ってほしい
- ^ 【8月27日のバースデージョッキー/小原騎手&高橋智騎手】 UMAJIN - UMAJIN.net
- ^ 【海外渡航】小原義之騎手が欧州で研修 - スポニチ Sponichi Annex
- ^ “06年ダービージョッキー・石橋師、武豊で船出「臨機応変に」”. スポーツニッポン (2014年2月28日). 2015年6月18日閲覧。