小山田義孝
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小山田 義孝(おやまだ よしたか、1896年(明治29年)11月9日[1][2][3] - 1963年(昭和38年)1月31日[2][4])は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、陸軍参与官、秋田県会議員、秋田県仙北郡西仙北町長、強首村長。
経歴
[編集]秋田県仙北郡強首村(のち西仙北町を経て、現在の大仙市)出身。早稲田大学専門部政治経済科卒業[4]。陸軍に入り、主計少尉となる[4]。除隊後、帰郷し、強首村議[4]、同村長、同農会長を経て、秋田県議、同参事会員となる[4]。1932年(昭和7年)秋田2区(当時)から立憲政友会公認で立候補し、初当選する。以後、4期連続当選。この間、阿部内閣で陸軍参与官を務めた[4]。太平洋戦争により1943年(昭和18年)に応召されたが、終戦後の1945年(昭和20年)9月に復職した。
追放解除後の1951年(昭和26年)秋田県農業委員会連絡協議会会長、同農業会議議長、全国農業会議議員を歴任した[2]。
1959年(昭和34年)西仙北町長に就任[2][3]。在任中は公民館や役場新庁舎や火葬場などの建設[3]、町内の各家庭への通電[2]、町章の制定や森林組合の設立、用水路の開通などがあった[3]。ほか、仙北郡町村会長、秋田県総合開発審議会農林部会長などを務めた[2]。
1963年(昭和38年)病気で入院し、2期目を目指したが、町長選挙告示の日に病状が悪化し、急逝した[2]。
国政選挙歴
[編集]- 1932年(昭和7年)2月20日 - 第18回衆議院議員総選挙(秋田2区・立憲政友会公認・21250票獲得)初当選
- 1936年(昭和11年)2月20日 - 第19回衆議院議員総選挙(秋田2区・立憲政友会公認・15061票獲得)2期連続当選
- 1937年(昭和12年)4月30日 - 第20回衆議院議員総選挙(秋田2区・立憲政友会公認・15666票獲得)3期連続当選
- 1942年(昭和17年)4月30日 - 第21回衆議院議員総選挙(秋田2区・翼賛政治体制協議会推薦・16405票獲得)4期連続当選
栄典
[編集]家族・親族
[編集]人事興信録・第4版[6]より。
- 高祖父:小山田文五郎 - 強首村長
- 曾祖父:小山田治右衛門 - 強首村長
- 曾祖母スヱ(文政六、三生、齋藤與左衛門の妹)
- 祖父:小山田治右衛門(嘉永元年十一月二十九日、秋田県会議員、強首村長)
- 祖母・ヒサ(文久元、二生、関節蔵の伯母)
- 長女・ヤス(明一二、七生、萩原勘右衛門の孫・周治へ嫁ぐ)
- 次男・静一(明一四、一二生、本郷イクの夫となる)
- 二女・ユリ(明一六、六生、高根清信の長男・来助に嫁ぐ)
- 三男・景良(明一八、九生、今吉兵衛の養子となる)
同薰五生、同三女)同尊(同四二、一一生、同五女)同登志(同四五、四生、同六女)同綾(大三、一生、同七女)あり
- 父:小山田貞虎(長男、明四、一一生、秋田県会議員)
- 母・リツ(明九、一二生、石田芳之助の二女)
- 長女・ミヤ(明二五、六生、三浦駒蔵の三男へ嫁ぐ)
- 次女・ツハ(同二七、九生、山崎久治の長男・亀治へ嫁ぐ)
- 長男・義孝(明二九、一一生)
- 五女・尊(同四二、一一生)
- 六女・登志(同四五、四生)
- 七女・綾(大三、一生)
- 三女[6]薫(五生)
一族
[編集]遠縁
[編集]福原定吉翁伝より。
- ハツ(小山田治右衛門家の出)
- ハツの夫・渡部良助(南楢岡の地主で、元村長)
- 長女・千代(淀川の村長・小山田隆治の妻)
- 次女・ナヲ(雄物川町館合の佐藤団四郎の妻)
- 三女・タケ子(大曲町長・福原定吉の妻)
出典
[編集]郷土の先人 大仙市西仙北地域