コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小川蕃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小川 蕃(おがわ しげし、1891年明治24年〉10月14日 - 1939年昭和14年〉9月1日)は、日本外科医外科学者。医学博士京城帝国大学医学部外科学教室外科学第二講座初代教授。朝鮮医学界に大きな貢献をした。

略歴

[編集]

新潟県中蒲原郡津島村大字古津(現 新潟市秋葉区古津)において小川重綽の五男として出生。

1909年明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1913年大正2年)7月に第二高等学校を卒業[注 1]1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業[注 2]

東京帝国大学医科大学外科学教室外科学第二講座(担任:近藤次繁教授)副手に就任、1919年(大正8年)12月から神戸三菱造船所病院に勤務、1921年(大正10年)3月に朝鮮総督府医院医官に就任、6月から京城医学専門学校教授を兼任。

1924年(大正13年)9月に文部省在外研究員として外科学の研究のため、ドイツフランススイスアメリカへの留学に出発[1][2]1926年(大正15年)1月に帰国、3月に東京帝国大学から医学博士号を取得。

1927年昭和2年)4月に京城帝国大学医学部外科学教室助教授に就任、1928年(昭和3年)4月に京城帝国大学医学部外科学教室外科学第二講座初代教授に就任。

1939年(昭和14年)9月1日午後0時5分に京城帝国大学医学部附属医院の診察室で外来患者の診察後に心臓麻痺で急逝[3][4][5][6][注 3][注 4]、9月4日に大学構内で医学部葬が執り行われた。

1941年(昭和16年)9月1日に小川蕃の教え子たちが小川蕃の故郷の新潟県中蒲原郡金津村大字古津(現 新潟市秋葉区古津)の古津八幡山遺跡の近くの小川家の墓所に朝鮮金剛山御影石で小川蕃の墓碑を建立した[7][8][注 5]

甲状腺腸閉塞などの研究で業績を上げた[8][11][12]。また、熱心かつ懇切に医学生・医局員を教育・指導し、朝鮮半島における近代外科学の発展に貢献した[3][9][11][13][14][15][16][17][18]

栄典

[編集]

家族・親戚

[編集]

著作物

[編集]

著書

[編集]

主な論文

[編集]
  • 肝臟膿瘍」『診斷と治療』第16巻第4号、479-488頁、金朋学[共著]、診断と治療社、1929年。
  • 腸閉塞症」『診斷と治療』第16巻第8号、1004-1009頁、三浦良雄[共著]、診断と治療社、1929年。
  • 「蟲樣突起炎の合併症としての右側腎盂炎」『診斷と治療』第16巻第12号、1510-1518頁、三浦良雄[共著]、診断と治療社、1929年。
  • 胃潰瘍」『診斷と治療』第17巻第8号、1073-1080頁、朴乾源[共著]、診断と治療社、1930年。
  • 「高位腸閉塞の死因に就て」『診斷と治療』第18巻第2号、163-173頁、診断と治療社、1931年。
  • 「「イレウス」治療時內容の處置に就て」『診斷と治療』第20巻第1号、123-127頁、診断と治療社、1933年。
  • バセドー氏病の診斷と療法 (I)」『東西醫學大觀 後期 第四卷』771-774頁、東西医学社[編]、東西医学社、1933年。
  • 「バセドー氏病の診斷と療法 (II)」『東西醫學大觀 後期 第四卷』775-782頁、東西医学社[編]、東西医学社、1933年。
  • 「全身傳染症 (Allgemeininfektion) に就て」『臨牀外科』第2巻第2号、83-86頁、朝鮮外科同攻会[編]、満鮮之医界社、1935年。
  • 「壯年期 或は特發性壞死脫疽)(抄)」『日獨治療』第11年第4号、85-89頁、日独治療社、1936年。
  • 「北朝鮮滿洲國隣接地帶の土疾 カシン・ベツク氏病英語版」『診斷と治療』第25巻第2号、240-242頁、江田栄[共著]、診断と治療社、1938年。
  • 「因腹部鈍體衝突而發生之腸管破裂」『同仁醫學』第11巻第6号、39-43頁、同仁会、1938年。
  • 特發牲脫疽患者の血管像と療法に就て」『日本臨牀外科醫會雜誌』第3巻第4号、191-197頁、江田栄[共著]、日本臨床外科医会、1939年。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 1910年明治43年)9月に第二高等学校に入学。
  2. ^ 1915年大正4年)6月の第1期医学科試験に合格、1917年(大正6年)7月に医学科の全課程を修了、同年9月から12月まで実施された第2期医学科試験に合格して医師免許を取得、1918年(大正7年)7月9日の「卒業證書授與式」で卒業証書を受領。
  3. ^ 高血圧症のため、1939年昭和14年)2月に長崎県雲仙市雲仙温泉で療養したりしたが、医局員たちからの静養の勧めを断り、完治しないまま職責を尽くしていた[3][4]。雲仙温泉では東京帝国大学の同期で長崎医科大学学長の角尾晋に往診を依頼した[6]
  4. ^ 新津市史 通史編 下巻』の939頁には「手術室で外来患者手術中に脳溢血で死亡」とある。『新潟県大百科事典 別巻』の61頁と『郷土再発見! ふるさとの誇り100話』の23頁には「病を押して病室回診中」とあるが、死因には言及していない。
  5. ^ 小川蕃の墓碑には、「若き人よ まづ 追ひつき 然る後 追ひ越せ」という小川蕃の言葉が刻まれている[8][9]。筆者は元京城帝国大学医学部外科学第二講座助教授の調来助長崎市栄誉市民、長崎大学名誉教授、放射線影響研究所名誉顧問)である[6][8][10]

出典

[編集]
  1. ^ 敍任及辭令」『官報』第3628号、637頁、内閣印刷局、1924年9月25日。
  2. ^ 敍任及辭令」『官報』第3658号、12頁、内閣印刷局、1924年11月1日。
  3. ^ a b c 外科』第3巻第10号、68頁。
  4. ^ a b 外科』第3巻第12号、82頁。
  5. ^ 紺碧遥かに 京城帝国大学創立五十周年記念誌』267頁。
  6. ^ a b c 紺碧遥かに 京城帝国大学創立五十周年記念誌』275頁。
  7. ^ 新津市の文化財 第2集 いしぶみ編 その2』32頁。
  8. ^ a b c d 郷土再発見! ふるさとの誇り100話』23頁。
  9. ^ a b 新津市の文化財 第2集 いしぶみ編 その2』33頁。
  10. ^ 新津市の文化財 第2集 いしぶみ編 その2』32-33頁。
  11. ^ a b 新津市誌 金津・小合・新関地区編』1010頁。
  12. ^ 紺碧遥かに 京城帝国大学創立五十周年記念誌』268頁。
  13. ^ 外科』第3巻第12号、80-82頁。
  14. ^ 事典 日本の科学者 科学技術を築いた5000人』185頁。
  15. ^ 新潟県大百科事典 別巻』61頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、337頁。
  16. ^ 新津市史 通史編 下巻』939頁。
  17. ^ 郷土再発見! ふるさとの誇り100話』22頁。
  18. ^ 紺碧遥かに 京城帝国大学創立五十周年記念誌』269頁。
  19. ^ 敍任及辭令」『官報』第3377号、392頁、内閣印刷局、1938年4月8日。
  20. ^ 敍任及辭令」『官報』第3801号、120頁、内閣印刷局、1939年9月5日。

参考文献

[編集]
  • 「小川先生を偲びて」『外科』第3巻第12号、80-82頁、安野権治[著]、外科雑誌社、1939年。
  • 「小川蕃敎授の永眠を悼む」『外科』第3巻第10号、68頁、外科雑誌社、1939年。
  • 「小川蕃」『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』142-143頁、泉孝英[編]、医学書院、2012年。
  • 「小川蕃」『事典 日本の科学者 科学技術を築いた5000人』185頁、板倉聖宣[監修]、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2014年。
  • 「小川蕃」『越佐と名士』345-346頁、坂井新三郎[著]、越佐と名士刊行会、1936年。
  • 「小川蕃」『新潟県大百科事典 別巻』61頁、蒲原宏[著]、新潟日報事業社[編]、新潟日報事業社、1977年。
  • 「小川蕃」『新潟県大百科事典』復刻デスク版、337頁、蒲原宏[著]、新潟日報事業社出版部[編]、新潟日報事業社出版部、1984年。
  • 「小川蕃」『新津市誌 金津・小合・新関地区編』1009-1011頁、新津市図書館[編]、新津市役所、1979年。
  • 「小川蕃」『新津市史 通史編 下巻』939頁、新津市史編さん委員会[編]、新津市、1994年。
  • 「小川蕃墓碑」『新津市の文化財 第2集 いしぶみ編 その2』32-33頁、新津市立記念図書館[編]、新津市教育委員会、1977年。
  • 「朝鮮医学会の発展に貢献した外科医 小川蕃(新津市)」『郷土再発見! ふるさとの誇り100話』22-23頁、「ふるさとの誇り100話」編集事務局[編]、新潟県新津地域振興調整会議、2005年。
  • 『紺碧遥かに 京城帝国大学創立五十周年記念誌』京城帝国大学創立五十周年記念誌編集委員会[編]、京城帝国大学同窓会、1974年。

関連文献

[編集]
  • 「故京城帝國大學敎授小川蕃博士」『外科』第3巻第12号、口絵、外科雑誌社、1939年。
  • 「若き人よ まづ 追ひつき 然る後 追ひ越せ 小川蕃」『新津市の文化財 第2集 いしぶみ編 その2』表紙、調来助[筆]、新津市立記念図書館[編]、新津市教育委員会、1977年。

外部リンク

[編集]