松波仁一郎
表示
松波 仁一郎(まつなみ にいちろう、1868年1月25日(慶応4年1月1日) - 1945年(昭和20年)11月3日)は、日本の法学者。専門は海商法。大阪府出身。民法典・商法典起草補助委員の一人。
人物
[編集]1868年(慶応4年)岸和田藩士の松波仁右衛門と、妻・八重の長男として大阪岸和田並松町に生まれる[1]。1881年(明治14年)同志社英学校普通科に入学。1886年(明治19年)卒業。キリスト教に対しては批判的だったが、新島襄はそういったことを理由に学生を差別するようなことは全くなく深い感銘を受けたという。同志社卒業後は帝国大学予備門に進学。東京帝国大法科大学に進み、卒業後は1893年(明治26年)に法典調査会起草委員補助に任命され梅謙次郎を補佐、日本民商法典成立に貢献した。海軍大学校教官を経て1900年(明治33年)東京帝国大学教授に就任する。海事法学の世界的権威として活躍しロンドン万国海法会議副議長、パリ万国海法会議議長などを務めた。帝国学士院会員。
経歴
[編集]- 慶応和泉国岸和田に生れる 4年(1868年)正月元日
- 明治19年(1886年) 京都同志社英学校卒業
- 明治23年(1890年) 第一高等中学校卒業
- 明治26年(1893年) 東京帝国大学法科大学卒業・法典調査会起草委員補助(内閣)・日本法律学校講師
- 明治27年(1894年) 海軍大学校嘱託教授・海軍省及び陸軍省法律顧問
- 明治29年(1896年) 海軍大学校教官・第一高等学校嘱託教授・従七位
- 明治30年(1897年) 海法研究のためイギリス・フランス・アメリカ・ドイツへ留学・海軍省及び逓信省より海法取調嘱託
- 明治31年(1898年) 勲六等
- 明治32年(1899年) ロンドン万国海法会議列席、副議長。慶應義塾大学部法律科教授(商法担当)。
- 明治33年(1900年) 巴里万国海法会議列席、副議長・東京帝国大学教授・東京高等商業学校専攻科講師
- 明治34年(1901年) 法学博士・文官高等試験委員(十数年継続)
- 明治37年(1904年) 内閣法律顧問
- 明治41年(1908年) 法律(商法)取調委員(内閣)
- 明治42年(1909年) 高等官二等
- 大正 6年(1917年) 高等官一等
- 大正 9年(1920年) フィリピン官立大学にて日本の政治憲法等を講義
- 大正10年(1921年) 勲二等
- 大正11年(1922年) 日本大学商学部長
- 大正12年(1923年) 海事委員会委員(内閣)・コーテンボルグ万国海法会議に列席、副議長・海軍省及び逓信省より海法調査嘱託
- 大正13年(1924年) ロンドン国際船主会議に列席、名誉副議長
- 昭和帝国学士院会員被仰付 2年(1927年) 勅旨により
- 昭和正三位 3年(1928年)
- 昭和 4年(1929年) 海事法令調査会委員・船員法委員長(逓信省)・法制審議会委員商法主査(内閣)
- 昭和 6年(1931年) 万国学士院総合会議に派遣される
- 昭和満洲事変の尽力により陸軍省及び海軍省より賞品及び賞状を受ける[2] 9年(1934年)
- 昭和20年(1945年) 岸和田市の自宅に帰省中腎臓病で死去[3]
脚注
[編集]- ^ 「夏目漱石と私」(「牛門漫筆-名高い人と私」より)(ミニ岸和田再発見第12弾)| 岸和田市立図書館
- ^ 日本大学商経研究会『松波博士古稀祝賀記念論文集』681頁~683頁(昭和九年まで)
- ^ 『朝日新聞』 1945年11月6日
参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 七戸克彦「現行民法典を創った人びと(30・完)書記・起草委員補助1・2・3 : 仁保亀松・仁井田益太郎・松波仁一郎、外伝25 : 法典調査会のその後」『法学セミナー』第56巻第11号、日本評論社、2011年11月、50-54頁、ISSN 04393295、NAID 120005227068。
- 初代商学部長 松波 仁一郎 - 日本大学の歴史