コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

梅謙次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
梅 謙次郎
人物情報
生誕 (1860-07-24) 1860年7月24日万延元年6月7日
出雲国意宇郡松江灘町(現・島根県松江市
死没 (1910-08-25) 1910年8月25日(50歳没)
大韓帝国漢城府(現・大韓民国の旗 大韓民国ソウル特別市
国籍 日本の旗 日本
出身校 司法省法学校[1]
リヨン大学
学問
研究分野 法学民法学商法学
研究機関 東京帝国大学法科大学
学位 法学博士(リヨン大学・1889年)
法学博士(日本・1891年)
主な業績 民法典商法典の起草
学会 帝国学士院
法学協会
法典質疑会
テンプレートを表示

梅 謙次郎うめ けんじろう1860年7月24日万延元年6月7日) - 1910年(明治43年)8月25日)は、日本法学者教育者学位は、法学博士帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、東京帝国大学法科大学長、内閣法制局長官文部省総務長官等を歴任。法典調査会民法起草委員・商法起草委員。和仏法律学校(現・法政大学)学監・校長、法政大学初代総理。勲一等瑞宝章受章。富井政章穂積陳重とともに民法を、田部芳岡野敬次郎とともに商法を立案起草した。弟子に川名兼四郎[2]など。

経歴・人物

[編集]

松江藩(現・島根県松江市)で藩医・梅薫の次男[3]として生まれた。6歳にして大学 (書物)中庸を暗唱し、「梅家の小坊さんは日朗様の再来だ」と称賛された[4]。病弱ながらも意思強固で議論に強く、12歳にして藩主の前で日本外史を講じて褒章を受けるなど、幼少より非常な秀才ぶりを発揮した[5]

東京外国語学校(現東京外国語大学)仏語科[6]を首席卒業後、司法省法学校フランス法を学び、入学当初から首席を占め、病気で卒業試験は未受験にもかかわらず、平常点だけで首席卒業[7]。指導教官はジョルジュ・アペール[8]。なお司法省法学校二期生の入学試験には当初不合格になっており、この時の次席合格原敬(後の首相)が陸羯南らとともに学校経営上の紛争に巻き込まれ中退し(賄征伐)、欠員が生じたことで転学への途が拓けている[9]

文部省国費留学生としてフランス留学を命じられ、飛び級リヨン大学の博士(Doctorat)課程に進学。首席で博士号を取得。博士論文『和解論』は現地でも高く評価され、リヨン市からヴェルメイユ賞碑を受け公費で出版された。1891年には、ドイツベルリンの法律雑誌にもその書評が掲載されている[10]。同論文はフランスでは法律百科事典に引用されており[11]、現在もフランス民法の解釈論として通用している[12]。ドイツのベルリンにも留学し、1890年(明治23年)8月に帰国すると、伊藤博文にブレーンとして重用された[13]

学者としては帝国大学法科大学(現東大法学部)教授の職務に専念するため、私学には出講しないつもりであったが、レオン・デュリー門下[注 1]薩埵正邦(法政大学創立者)とゆかりのある富井政章(薩埵の義理の兄)やリヨン留学時代に世話になった本野一郎(当時和仏法律学校講師)が横浜港の船内まで出向いて懇請したため、和仏法律学校の学監兼務を承諾した[14]。以後20年間に渡り、学監、校長、初代総理として法政大学の設立、発展に大きく貢献した。なお「総理」と呼ばれたのは梅のみで、梅以降は「学長」、これが2代続いた後からは「総長」となる[15]東京専門学校(現早稲田大学)でも教鞭をとった[16]

帰国前に勃発していた民法典論争においては、結論的には裁判実務の統一及び不平等条約改正の便宜を重視して旧民商法断行論に立つも[17]、法典そのものにはむしろ批判的で学者としての信念から詳細な学理的批判を加えており[18][19]、しばしば梅が旧民法そのものを賞賛した断行派の代表である[20]かのように喧伝されるが俗説に過ぎないとも指摘される[21]。あまりに批判的なことから、梅は「法典延期論者である[22]」と評されることさえあったことは本人が認めている。しかし、そのように学者として公平誠実な態度を採ったことは、断行派の敗北にもかかわらず新民法起草者に選ばれる一因になった[23]民法典論争#梅謙次郎の断行論)。

梅は民商法起草においても拙速主義を採り、民法典の編別にも穂積・富井とは異なる意見も持っていたが(現行法と異なり、親族編を第二編に置くべきとする)、自説にはさほど執着せず、内容の不備は後の改正に委ね、法典施行を何よりも急ぐべきとする立場を維持し、完全主義の富井とは対照的であった[24]。穂積の『法窓夜話』によると、梅は鋭敏な頭脳を持ち、法文の起草をするのが非常に迅速で、起草委員会では富井政章穂積陳重の批評を虚心に聞き容れ、自説を改めた。しかし一たび起草委員会としての案が決まると、法典調査会では勇健な弁舌で反駁、弁解に努め、原案の維持を図った。これに対し富井は法文を沈思熟考の上起草し、起草委員三名の議論では容易に自説を改めなかったが、法典調査会では反対論を受け容れる姿勢を示した。それぞれ一理あるとの理解を示しつつ、梅の外弁慶と富井の内弁慶ぶりが対照的であり、「梅博士は、本当の弁慶」であったと回顧されている[25]

穂積、富井とともに、日本の民法典を起草した三人のうちの一人で、頭の回転の速い梅がいなければ、決して前後に矛盾の無い「今日ノ美法典」を見ることはなかったであろうとの評もあり、「日本民法典の父」といわれる[26]。もっとも、梅は拙速主義の立場から民法の構成にはあまりこだわっていなかったため、編別には穂積・富井の考えがより強い影響力を持っていたと推測されている。特に、三名の起草委員の中で指導的立場に立ったのは穂積であった。一方で法典調査会での発言回数[27]はトップを記録しており、梅は内容面よりもむしろ民法典の早期完成に寄与するところが大きかったようである[28][29]。また、梅は抜群の頭の回転による速やかな論理操作を得意とする反面[30]、牽強付会の強引な論法も目立ち、富井と異なり前後に矛盾の無い統一的・体系的説明は不得意であったという[31]。全体的に出来が良い民法典の中でも例外的に梅が原案起草を担当した抵当権は錯雑としてわかりづらい、特に滌除は理屈倒れで機能していないと批判されている[32]。担当箇所は法典調査会#民法起草体制参照。

それでもなお、伊藤博文(内閣総理大臣法典調査会総裁)は「穂積君」「富井君」と呼ぶ一方で、梅に対しては「梅先生」と呼び重用した[33]。「空前絶後の立法家」「先天的な法律家」とも称され[34]、日本の法学者の中で唯一、単独で切手(文化人シリーズ)になっているなどその功績を高く評価されている[35][注 2]

他にも商法韓国の法典起草に加わったほか、行政面でも数多くの役職を兼任するなど、多方面で精力的に活動したが、50歳で急逝した。葬儀は、東京の護国寺で法政大学葬として執り行われた。

穂積、富井と異なり男爵になれなかったのは、早くに死去したため功績が充分世に認められなかったためであるという[36]

学説

[編集]
梅(中央)と富井政章(左)、穂積陳重(右)

アリストテレストマス・アクィナスを経た新自然法論を支持し、フランス法学に親和的な立場であった。梅が学んだフランス法の註釈学派は、自然法論を前提としつつも自然法が革命の原理たり得ることを否定し、一般意志によって表明された制定法こそ自然法であり、法律の解釈は、立法者の意思の探求とその演繹による体系化による法典の注釈にあるとしていたが、梅は、深淵な観念論を嫌い、制定法の枠内で実質的に妥当な解決を速やかに示す実務型の学者であった。穂積陳重は、梅の自然法論について、「現行法の規定中に自然法の根拠を求めて居るのであるから、本当の意味での自然法ではない」と評している[37]。人為の成文法に根拠を求めるとするならば、それはもはや自然法ではないからである[38]。梅自身も自然法という言葉を避け「理想法」といっているが、万古不変の法理をローマ法に求めたドイツのサヴィニーと本質的に大差無い[39]とも評される。

しばしばフランス法系の学者の代表のように扱われる[40]ことがあるが、ドイツ留学者でもあり、民法典起草に当たってはフランス民法典ではなくドイツ民法草案を最も重要な範に採ったと明言しているとも指摘されており[41]、また「仏国法典は既に百年の星霜を経たるものであって、且其不完全の程度は確かに我法典より甚しいのであるから、之に適合する解釈法は必ずしも之を移して我民法典の解釈法とすることを得ない」とした上で、当時の日本の私法解釈方法につき、「大体に於てヴィントシャイド氏、デルンブルヒ氏等の意見と符節を合する」と述べている事に注意すべきであると指摘されている[42][43]

一方で、日本民法がもっぱらドイツ民法の模写であるという世評には反対しており、フランス法系の民法にも好意的な立場を示し[44]、例としてスペイン民法典を挙げている[45]

エピソード

[編集]

司法省法学校時代、一週間で仏文教科書300ページを完全暗記し、答案にそのまま再現したため、かえって減点されてしまった[12]。また、民法典に関しても、全条文を完全に暗記していた[要出典]

リヨン大学ではあまりに優秀であったため、ほかの日本人留学生までが「日本人には富井、梅のやうな法律の神様のやうな人間が居る」と現地学生に畏れられ、警戒されたというエピソードが伝えられている(飯塚茂太郎直話)[46]。通常5年が必要なところ3年半の在学で卒業試験を受ける資格を与えられ、試験官の3頁にわたる論文を一字一句誤り無くよどみないフランス語で暗唱して、この記憶力は人間業ではないと教授たちを驚愕させたという[47]

食べ物ではとにかくが大好物で、法政大学の理事会の食事は鰻定食が慣例となり、梅が渡韓した時の統監府では鰻代の出費が非常に増えた[12]

家族・親族

[編集]

2歳年上の兄・梅錦之丞はドイツに留学後、日本人として初めて眼科の講義と診療を行い、東京大学医学部の初代眼科教授となった。森鷗外の『独逸日記』に出てくる「梅某」とは、この兄のことを指すと考えられている[10]

妻・兼子が、小泉八雲の妻・セツの縁戚(兼子の母方叔父の妻と従姉妹同士)であることから、1903年に東大が八雲を解雇した際(後任は夏目漱石)、梅は八雲の相談相手となり、翌1904年9月に八雲が死去した際には葬儀委員長も務めている[12]

  • 高祖父・梅道竹 ‐ 松江藩医。出雲国加茂村 (鳥取県)の外科医・梅木家の二男に生まれ、長崎本川道悦に外科を学び、帰郷後分家して梅姓を名乗る。松江で開業し、藩医として取り立てられる。[48]
  • 曽祖父・梅道竹2代目 ‐ 初代の娘婿。藩医。初代同様長崎で学び、跡を継いだが40歳で早世。[49]
  • 祖父・梅道竹3代目/梅栄(1798-1866) ‐2代目の子。長崎、大阪、江戸で学び、藩医として御目見から新番組に昇進。[49]
  • 父・梅薫(1834-1905) ‐ 3代目の娘婿。藩医[50]、のち商人。出雲国野波村の医師・伊沢文省の二男として生まれ、梅家の養嗣子となり、薫に改名[48]。維新を経て1874年に上京し、呉服屋、薬屋、手拭屋に手を出しては次々と失敗、露天商となり、1877年には妻も亡くして生活困窮したが、子供たちの成功で後半生は豪奢な生活を送った[49]
  • 兄・梅錦之丞(1858-1886) ‐ 眼科医。28歳で病死。
  • 妻・兼子 ‐ 松江藩士・松本理左衛門の三女[51]。松本家は初代道竹の頃よりの縁戚。15年間の内縁関係の末、1905年に入籍[49]
  • 長女・梅枝(1892-) ‐ 建築技師・板倉操一(板倉松太郎長男)の妻[52]
  • 長男・緑(1893-1937) ‐ 東京帝国大学文科大学英文科中退。出生時に両親が未入籍であったため母方祖父の子として届けられ、のちに謙次郎の籍に養子として入った。謙次郎は緑の許嫁として板倉松太郎の三女・梅子(娘婿の妹)を養女とするも緑が母方のいとこと結婚したため、縁組は解消となった。[51][49]
  • 二男・震(1896-1970) ‐ 満洲中央銀行員。東京帝国大学法科大学卒。日本銀行出身で、敗戦時には満州中銀理事、同行清処理員として敗戦後の処理にもあたった。帰国後は秋田木材社長などを務めた。妻の文子は平岡浩太郎西郷従道の孫。[53][49]
  • 三男・徳(1897-1958) ‐弟と双子。岩波書店校正課長。東京帝大文学部選科中退。2度の交通事故により死去。[49]
  • 四男・光(1897-) ‐ 徳と双子。京都帝国大学法経済学部卒業後、兄の徳と出版社を経営、兄の就職後横浜の会社に就職したが、その後台湾満州へ渡った。[49]

略歴

[編集]
1952年(昭和27年)文化人切手

栄典

[編集]
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

著作

[編集]
  • 『梅謙次郎著作全集 CD版』 岡孝編、丸善、2003年
単著書
共著書
編書
  • 『法律辞書』 法典質疑会編纂、明法堂、1903年2月第一・第二 / 1906年10月第三
    • 『法律辞書〔明治36年〕』 法典質疑会編纂、信山社出版〈日本立法資料全集〉、1999年5月、ISBN 4797246340

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 富井政章、薩埵正邦、本野一郎、高木豊三は、ともに官立の京都仏学校でレオン・デュリーのもとで学んでいたデュリー門下である。また、梅謙次郎も東京外国語学校時代にデュリーから教えを受けており、デュリーの記念碑が京都南禅寺に建立された1899年、梅と富井はその除幕式に出席するため、東京から駆けつけている(岡 「明治民法と梅謙次郎」)。
  2. ^ 穂積・富井も民法起草者として切手になっているが単独ではない。“穂積兄弟” たむたむホームページ、2015年11月21日閲覧
  3. ^ 委員長西園寺公望、委員は梅謙次郎・富井政章ら12名。

出典

[編集]
  1. ^ 『東京帝国大学一覧 従明治30年至明治31年』東京帝国大学、1897年、p.472
  2. ^ 法曹会『法曹(12)(218)』8頁(法曹会、1968)”. dl.ndl.go.jp. 2023年7月31日閲覧。
  3. ^ 人事興信所 1903, 646頁.
  4. ^ 霞五郎『法政大学物語百年史』法友新聞社、1981年、119頁
  5. ^ 潮見.利谷(1974), p. 73.
  6. ^ 東京外国語学校沿革」、東京外国語学校、1932年。 
  7. ^ 『現行民法典を創った人びと3』.
  8. ^ 潮見.利谷(1974), p. 75, (向井).
  9. ^ 七戸克彦「現行民法典を創った人びと(4)主査委員 1 : 末松謙澄・伊東巳代治,外伝1 : 司法省法学校正則科第2期生と賄征伐」『法学セミナー』第54巻第8号、日本評論社、2009年8月、89頁、CRID 1050282810872843392hdl:2324/15931ISSN 0439-3295 
  10. ^ a b 岡 「明治民法と梅謙次郎」
  11. ^ 梅謙次郎について” 法政大学図書館、2015年11月21日閲覧。
  12. ^ a b c d 『現行民法典を創った人びと3』
  13. ^ 向井、77、79頁
  14. ^ 法政大学大学史資料委員会、法政大学図書館100周年記念事業委員会編 『法政大学 1880-2000:そのあゆみと展望』 法政大学、2000年9月。法政大学イノベーション・マネジメント研究センター、洞口治夫編 『大学教育のイノベーター:法政大学創立者・薩埵正邦と明治日本の産業社会』 書籍工房早山、2008年4月、ISBN 9784886115102
  15. ^ 歴代学長 法政大学
  16. ^ 中川壽之「明治法典論争の中の私立法律学校」『明治大学史資料センター報告』第37巻、明治大学史資料センター、2016年3月、54頁、CRID 1050294584545320576hdl:10291/18311ISSN 1349-8843 
  17. ^ 梅ほか 『法典実施意見』 明法堂、1892年5月
  18. ^ 梅 「法典二関スル話」(『国家学会雑誌』第12巻第134号、1898年4月)542-543頁
  19. ^ 岩田(1943), p. 26.
  20. ^ 例として、河合敦『世界一わかりやすい河合敦の日本史B近・現代特別講座』KADOKAWA、2017年、144頁
  21. ^ 星野(1951), p. 39(有地(1971), p. 102)
  22. ^ 梅謙次郎「法典ニ関スル述懐」1893年、星野通『明治民法編纂研究史』ダイヤモンド社、1943年(復刻版信山社、1994年)541頁所収
  23. ^ 星野(1951), p. 40.
  24. ^ 有地(1971), p. 98-103.
  25. ^ 梅博士は真の弁慶」(前掲穂積 『法窓夜話』)
  26. ^ 穂積、梅対岡松」(斬馬剣禅 『東西両京之大学』 鳥海安治、1904年1月)47頁。森田。
  27. ^ 七戸克彦「現行民法典を創った人びと(1)序論,総裁・副総裁 1 : 伊藤博文・西園寺公望」『法学セミナー』第54巻第5号、日本評論社、2009年5月、40-44頁、ISSN 04393295NAID 120001730648 
  28. ^ 有地(1971).
  29. ^ 堅田剛著 『独逸法学の受容過程:加藤弘之・穂積陳重・牧野英一』 御茶の水書房、2010年12月、ISBN 9784275009050、127頁。「民法編纂」(穂積陳重著 『法窓夜話』 有斐閣、1916年1月)。
  30. ^ 岩田(1943), p. 7.
  31. ^ 岩田(1928), p. 203,206.
  32. ^ 仁井田ほか(1938)25、29頁(穂積重遠、仁井田発言)
  33. ^ 熊谷開作 「学説百年史 民法(家族法)」(『ジュリスト』第400号、有斐閣、1968年6月)77頁。
  34. ^ 梅謙次郎博士” 法政大学、2015年11月21日閲覧。
  35. ^ 梅謙次郎” たむたむホームページ、2015年11月21日閲覧。
  36. ^ 仁井田ほか(1938)28頁
  37. ^ 岩田(1943), p. 47.
  38. ^ 岩田(1928), p. 204.
  39. ^ 岩田(1943), p. 28,44-48.
  40. ^ 向井、96頁。
  41. ^ 梅 「我新民法ト外国ノ民法」(『法典質疑録』第8号、法典質疑会、1899年4月)670-679頁。加藤雅信著 『現代民法学の展開』 有斐閣、1993年9月、ISBN 4641037779、130頁。
  42. ^ 瀬川信久梅・富井の民法解釈方法論と法思想」『北大法学論集』第41巻第5号、北海道大学法学部、1991年10月、2439-2473頁、ISSN 03855953NAID 120000958828 
  43. ^ 梅 「法律の解釈」(『太陽』第9巻第2号、博文館、1903年2月)56-62頁。梅 『民法総則(自第一章至第三章)』 法政大学、1907年、304-309頁
  44. ^ 梅 「開会ノ辞及ヒ仏国民法編纂ノ沿革」(法理研究会編輯 『仏蘭西民法百年紀念論集』 法理研究会、1905年12月)3頁。「日本民法典に与えたフランス民法の影響」(星野英一著 『民法論集 第一巻』 有斐閣、1970年8月、ISBN 464103432X)89頁
  45. ^ 梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法」『法典質疑録』8号670頁以下、岡孝「明治民法起草過程における外国法の影響」『国際哲学研究』第4号、東洋大学国際哲学研究センター、2014年8月、16-33頁、doi:10.34428/00008164ISSN 2186-8581NAID 120005832812 
  46. ^ 杉山直治郎編『富井男爵追悼集』、有斐閣、1936年、73頁
  47. ^ 霞五郎『法政大学物語百年史』法友新聞社、1981年、120頁
  48. ^ a b 表紙の解説 夭折した或る眼科医の記─梅 錦之丞の生涯─谷原秀信、『眼科』Vol. 55. No. 5. 2013
  49. ^ a b c d e f g h 梅謙次郎の子供たち 七戸克彦、九州大学法政学会、法政研究 83-3、 2016-12-12
  50. ^ 梅謙次郎『人事興信録』初版 明治36(1903)年4月
  51. ^ a b 『博士梅謙次郎』東川徳治、法政大学[ほか], 1917、p202
  52. ^ 板倉松太郎『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  53. ^ 植民地帝国人物叢書 第63巻 満洲編24戦後の満洲四星霜(梅震著・私家版1958年)ゆまに書房、著者紹介
  54. ^ 『官報』第2545号、1891年12月22日、278頁
  55. ^ 『官報』第3199号、1894年3月1日、4頁
  56. ^ 『官報』第3824号、1896年4月1日、8頁
  57. ^ 『官報』第4319号、1897年11月22日、280頁
  58. ^ 『官報』第5249号、1900年12月28日、501頁
  59. ^ 『官報』第6783号、1906年2月12日、451頁
  60. ^ a b 『官報』第8157号、1910年8月29日、485頁
  61. ^ 『官報』第4501号、1898年7月2日、14頁
  62. ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
  63. ^ 『官報』第7051号、1906年12月28日、756頁
  64. ^ 『官報』第7083号、1907年2月12日、293頁
  65. ^ 『官報』第4051号、1896年12月28日、438頁
  66. ^ 『官報』第7488号、1908年6月13日、319頁
  67. ^ 『官報』第7629号、1908年11月30日、626頁

参考文献

[編集]

関連文献

[編集]
  • 山田三良 「嗚呼法学博士梅謙次郎先生」(『法学協会雑誌』第28巻第9号、1910年9月)
  • 『法学志林』第13巻第8・9号(梅博士追悼記念論文集)、法政大学、1911年8月
  • 「梅博士遺事録」1-33(『法律新聞』第836-916号、1913-1914年)
  • 東川徳治著 『博士梅謙次郎法政大学ほか、1917年11月
    • 東川徳治著 『博士梅謙次郎』 鳳出版、1985年3月
    • 東川徳治著 『博士梅謙次郎』 大空社〈伝記叢書〉、1997年11月、ISBN 4756804853
  • 『法学志林』第49巻第1号(梅謙次郎博士記念特集号)、1951年8月
  • 岡孝、江戸恵子 「梅謙次郎著書及び論文目録:その書誌学的研究」(『法学志林』第82巻第3・4号、1985年3月、NAID 40003468302
  • 梅謙次郎博士顕彰記念誌編集委員会編 『わが民法の父 梅謙次郎博士 顕彰碑建立の記録』 1992年3月
  • 岡孝 「梅謙次郎:和仏法律学校の支柱」(法政大学大学史資料委員会編 『法律学の夜明けと法政大学』 法政大学出版局、1993年3月、ISBN 4588635085
  • 「特集 民法100年と梅謙次郎」(『法律時報』第70巻第7号、日本評論社、1998年6月)
  • 梅文書研究会編 『法政大学図書館所蔵梅謙次郎文書目録』 法政大学ボアソナード記念現代法研究所、2000年3月
  • 李英美著 『韓国司法制度と梅謙次郎』 法政大学出版局、2005年11月、ISBN 4588635107
  • 浅野豊美著 『帝国日本の植民地法制:法域統合と帝国秩序』 名古屋大学出版会、2008年2月、ISBN 9784815805852
  • 法政大学ボアソナード・梅謙次郎没後100年企画・出版実行委員会編 『ボアソナード・梅謙次郎没後100周年記念冊子 BU100』 法政大学、2015年3月(上下2冊)
  • 岡孝著 『梅謙次郎 日本民法の父』 法政大学出版局、2023年9月、ISBN 9784588635151

外部リンク

[編集]


公職
先代
奥田義人
日本の旗 文部総務長官
1900年 - 1901年
次代
岡田良平
先代
神鞭知常
日本の旗 文官高等試験委員長
1897年 - 1898年
次代
神鞭知常
学職
先代
富井政章
帝国大学法科大学長
日本の旗 東京帝国大学法科大学長
1897年
次代
穂積八束
先代
富井政章
法学協会評議員長
1897年
次代
穂積八束