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大島誠治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大島 誠治(おおしま せいじ、1854年2月5日安政元年1月8日[1]) - 1912年明治45年)1月6日[2]は、日本官僚、法律家、教育者。旧肥前大村藩士文部省参事官、東京仏学校(現・法政大学)校長、文部大臣秘書官、大臣官房文書課長、第四高等学校(現・金沢大学)初代校長、会計検査院検査官などを歴任。最終的な位階・勲等は、正四位勲三等[3]。改名前の名は、三四郎。

経歴

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1855年(安政2年)、肥前国大村藩(現・長崎県)に生まれる。大島兵衛の長男[1]。藩の貢進生として大学南校に入学し、フランス語を学ぶ。開成学校官費生を経て、1876年(明治9年)に司法省法学校を卒業後、司法省に出仕。文部省へ移ってからは、1886年(明治19年)に仏学会(のち日仏協会)の創立会員となり、翌1887年(明治20年)11月には古市公威の後を継いで東京仏学校の校長に就任。文部省参事官として勤務する一方[4]、同校の校長と法律科の講師を務めた。1889年(明治22年)に東京法学校との合併に伴い校長を退任した後は、1890年(明治23年)8月に文部省参事官と大臣官房、普通学務局の兼勤を命じられる[5]。その後、文部大臣秘書官[6]、文部書記官兼文部省参事官[7]、大臣官房文書課長[8]を経て、1893年(明治26年)1月に第四高等中学校の校長に就任[9]。翌1894年(明治27年)9月には、高等学校令による同校の旧制高等学校への改編に際し、第四高等学校初代校長となった。1897年(明治30年)3月まで同校の校長を務めたのち、同年8月に会計検査院検査官に任命される[10]。以後、病没するまで検査官を務めた。1912年(明治45年)1月6日、胃癌により卒去享年58。墓所は青山霊園

栄典

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著書

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  • 大島誠治著 『法学入門』 金港堂、1887年

訳書

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  • ボアソナード述・大島三四郎ほか筆記(司法省蔵版)『仏国民法財産篇講義』 博聞社、1880年
  • 同上 『仏国民法財産篇講義』 弘令社、1881年
  • 同上 『仏国民法財産篇講義』 岡島宝玉堂、1883年
  • 同上 『仏国民法財産篇講義』 小笠原書房、1883年
  • 同上 『仏国民法財産篇講義』 錦光堂、1884年

脚注

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  1. ^ a b 人事興信所 1903, 302頁.
  2. ^ 『日本人名大辞典』 2001年12月6日 講談社刊 ISBN 978-4-06-210800-3
  3. ^ [1]『官報』第8563号・「叙任及辞令」明治45年1月6日
  4. ^ [2]『官報』第1457号・「叙任及辞令」明治21年5月11日
  5. ^ [3]『官報』第2130号・「辞令」明治23年8月5日
  6. ^ [4]『官報』第2352号・「辞令」明治24年5月6日
  7. ^ [5]『官報』第2816号・「叙任及辞令」明治25年11月15日
  8. ^ [6]『官報』第2816号・「叙任及辞令」明治25年11月15日
  9. ^ [7]『官報』第2873号・「叙任及辞令」明治26年1月28日
  10. ^ [8]『官報』第4237号・「叙任及辞令」明治30年8月16日
  11. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。

参考文献

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  • 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810 
  • 大植四郎編「大島誠治」『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年。
  • 経済雑誌社編「大島誠治」『大日本人名辞書 第7版増補』経済雑誌社、1912年。
  • 経済雑誌社編「大島誠治」『大日本人名辞書 第8版増補』経済雑誌社、1917年。
  • 長崎県教育会「大島誠治」『大礼記念長崎県人物伝』1919年。