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溝淵進馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
溝淵 進馬
誕生 (1871-02-14) 1871年2月14日明治3年12月25日
土佐国(現・高知県
死没 (1935-09-11) 1935年9月11日(64歳没)
墓地 高知県南国市
職業 教育者
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 帝国大学文科大学(現・東京大学文学部
代表作 『教育学講義』(1909年)
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溝淵 進馬(みぞぶち しんま、1871年2月14日明治3年12月25日[1] - 1935年昭和10年)9月11日[2])は、明治時代から昭和初期にかけての日本教育者

経歴

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土佐国高知県)出身。第三高等中学校を経て、1895年(明治28年)に帝国大学文科大学哲学科を卒業[1]高知県尋常中学校教諭、第二高等学校教授、千葉県尋常中学校校長、東京高等師範学校教授、東北帝国大学農科大学予科教授、第四高等学校校長を歴任し、1921年大正10年)に第五高等学校校長に就任した[1]。さらに1931年(昭和6年)には第三高等学校校長に転じた[3]

栄典

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著作

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脚注

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  1. ^ a b c 大衆人事録 1930.
  2. ^ 『官報』第2615号、昭和10年9月18日。
  3. ^ 人事興信録 1934.
  4. ^ 『官報』第43号「叙任及辞令」1927年2月23日。

参考文献

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  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第10版(下)』人事興信所、1934年。 

関連文献

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  • 故第三高等学校長溝淵進馬賜杯ノ件」(国立公文書館所蔵 「公文雑纂・昭和十年・第九巻」)
  • 『会報』臨時号、三高同窓会、1935年12月
  • 「思想問題を善処=教育家の典型溝淵進馬」(吉田千之著 『竜南人物展望』 九州新聞社出版部、1937年12月)
  • 「溝渕進馬日記」(『旧制高等学校史研究』第18号、旧制高等学校資料保存会、1978年10月 / 第19号、1979年1月)
  • 「溝渕進馬資料」(高知市民図書館編 『高知市民図書館所蔵 特設文庫総合目録 下巻』 高知市民図書館、1999年11月)
  • 「高等教育界に影響を与えた校長・溝渕進馬」(小山紘著 『さらば我友叫ばずや : 旧制高校史発掘』 論創社、2015年6月、ISBN 9784846014360

外部リンク

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公職
先代
大瀬甚太郎
日本の旗 東京高等師範学校附属中学校主事
1903年 - 1905年
次代
小泉又一
先代
千葉県尋常中学校長
黒川雲登
千葉県千葉中学校
1899年
千葉県尋常中学校長
1898年 - 1899年
次代
由比質
先代
私立佐倉中学校長
金井啓一
千葉県佐倉中学校
1899年
次代
深田藤治