高安右人
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高安 右人(たかやす みきと、万延元年7月19日(1860年9月4日) - 昭和13年(1938年)11月20日)は、日本の医学者で高安動脈炎(高安病)の発見者。
年譜
[編集]- 1860年(万延元年) 肥前国小城郡西多久村(現・佐賀県多久市)に、武岡家の四男として生まれる。
- 1887年(明治20年) 帝国大学医学部を卒業。
- 1888年(明治21年) 第四高等中学校に開設された医学部の教授に就任。(改組を通じて1924年まで在任)
- 1901年(明治34年) 金沢医学専門学校の設立(四高医学部から分離独立)に伴い、同校長に就任。
- 1908年(明治41年) 日本眼科学会にて、後に高安病と命名されるに至る病の発見を示した論文を発表[1]。
- 1923年(大正12年) 金沢医科大学の設立(金沢医学専門学校から昇格)に伴い、初代学長に就任。
- 1938年(昭和13年) 直腸癌のため死去。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ 高安右人「奇異ナル網膜中心血管ノ変化ノ一例」『日本眼科学会雑誌』第12巻、1908年、554-555頁、NAID 10024034146。
- ^ 『官報』第8105号「叙任及辞令」1910年6月29日。
- ^ 『官報』第1773号「叙任及辞令」1918年7月1日。
外部リンク
[編集]- 高安晃「Ⅲ. 父,高安右人の想い出」『金沢大学十全医学会雑誌』第73巻第2号、金沢大学十全医学会、1966年6月、243-244頁、ISSN 00227226、NAID 110007004572。