コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小林順一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年明治13年)1月3日 - 1963年昭和38年)11月20日)は、日本陸軍砲兵大佐実業家右翼黒幕右翼団体三六倶楽部主宰者、大政翼賛会総務。戦後A級戦犯として逮捕された。新潟県長岡市出身。

人物

[編集]

軍人として

[編集]

長岡藩士・小林保四郎の長男として生まれる。長岡中学陸軍中央幼年学校を経て、1901年陸軍士官学校卒業(13期)。同期には志賀直方志賀直哉の叔父、近衛篤麿の親友)・井田磐楠林茂清中岡弥高建川美次らがいる。

1902年、砲兵少尉となる。1904年日露戦争に出征し砲兵中尉となる。1908年陸軍砲工学校高等科卒(14期)、砲兵大尉となる。 1909年フランス駐在。1912年、砲兵射撃学校教官となる。1916年、砲兵少佐となり、フランス軍従軍。1917年、欧州駐在。1919年、欧州出張(平和条約実施委員)、1920年、砲兵中佐となる。

1922年、帰国。陸軍野戦砲兵学校研究部高級主事として「将来、日本軍の体質を根本的に改善し、列国同様、近代戦に応じる戦法及び兵力、編成装備を採らないかぎり、国軍はたちまち落伍するであろう」と発言。当時の陸軍大臣山梨半造と対立する。1924年、砲兵大佐に任官された直後に待命、予備役となる。

民間右翼として

[編集]

軍を離れた小林は、その後フランスの鉄鋼会社日本代表部などの事業で財を築き、それを資金として右翼運動の黒幕となった。1928年自衛社を創設し、雑誌『自衛』を創刊。 1931年からは、軍縮会議随員(陸軍省嘱託)としてジュネーヴに滞在。

1933年に帰国し、在郷軍人を中心とした右翼団体三六倶楽部1938年瑞穂倶楽部と改称)を井田磐楠らと共に設立する。また、愛国労働農民同志会の結成に参加し、会長となる。

荒木貞夫真崎甚三郎らと親しく、彼らを中心とする皇道派に近い考えを持っていた。1935年美濃部達吉天皇機関説が問題視されるようになると、恢弘会貴族院方面と連携し、天皇機関説排撃の急先鋒となった。

1936年二・二六事件が発生すると、憲兵隊の取り調べを受けた。同年、右翼諸派の統一戦線[1][2]として時局協議会を結成し、世話人となる。また、1938年に結成された帝大粛正期成同盟にも参加した。1939年大東塾の顧問となる。1940年近衛文麿新体制運動に加わり、大政翼賛会が発足すると、総務に就任する。また、大日本産業報国会副団長・審議員も務めた。

1945年12月、A級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに収監。親友の荒木貞夫は終身刑となったが、1947年8月、釈放。1963年茨城県の別邸で死去。享年84。墓所は青山霊園

著書

[編集]
  • 『陸軍の根本改造』(1924年)
  • 『帝国陸軍の現状と国民の覚悟』(1925年)
  • 『国際聯盟と日支問題の真相』(1933年)
  • 『非常時救国 外交対策』(1933年)
  • 『昭和維新の基調たるべき経済国策案骨子説明書』(1933年)
  • 『軍部と国体明徴問題』(1935年)
  • 『新経済国策の提唱』(1936年)
  • 『急迫せる極東の情勢と日本の立場』(1938年)
  • 『戦時に於ける国民の常識』(1938年)
  • 『事変下に於ける日本国民の覚悟』(1938年)
  • 『時局打開の経済策案』(1939年)
  • 『対米認識の統一に関する所見』(1939年)
  • 『撃攘か屈服か 米国の態度と事変処理』(1940年)
  • 『新政治体制問題と新政治結社問題に就ての卑見』(1940年)
  • 『時局概観』(1940年)
  • 『日米戦争に関する卑見』(1940年)
  • 『日米問題の緊迫と前途』(1941年)
  • 『大政翼賛会実践要綱の基本解説』(1941年)
  • 『臣民運動の根本理念』(1942年)
  • 『私の所信(第1篇序論)』(1957年)

参考文献

[編集]
  • 「小林順一郎」刊行委員会編『小林順一郎』(1964年)
  • 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』(三嶺書房、1997年)

脚注

[編集]
  1. ^ 十五年戦争極秘資料集補巻3第44号「昭和11年後半期に於ける左右両翼運動概況」
  2. ^ 「右翼新政党を結成」国民新聞1937年5月28日