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中岡弥高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中岡 弥高(なかおか やたか、1882年明治15年)1月1日[1][2] - 1975年昭和50年)1月21日[1][2])は、日本陸軍軍人政治家。最終階級は陸軍中将

経歴

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岡山県出身[1][2][3]中岡黙陸軍少将の長男として東京で生れる[1]岡山中学陸軍幼年学校を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業[1][2][4]。翌年6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる[1][4]1907年(明治40年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業[1]。陸士教官などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した[1][2][3]

1912年12月、野砲兵第17連隊中隊長となり、参謀本部付、参謀本部員、フランス留学、イタリア軍従軍などを歴任[1]1916年(大正5年)4月、砲兵少佐に昇進[1]1917年(大正6年)4月、陸大教官を兼務[1]。その後、近衛師団参謀第5師団参謀を歴任し。1920年(大正9年)1月、砲兵中佐に進級し浦塩派遣軍司令部付となりシベリア出兵に従軍[1]。さらに同軍広報部長を務めた[1]

1922年(大正11年)8月、砲工学校教官に転じ、1923年(大正12年)8月、砲兵大佐に昇進し野戦重砲兵第7連隊長に就任[1][3]1924年(大正13年)8月、参謀本部戦史課長に異動し、東京警備参謀長フランス大使館武官を歴任[1][3]1928年(昭和3年)8月、陸軍少将に進級[1][3]1931年(昭和6年)6月、参謀本部付となり、野戦重砲兵第1旅団長を経て下関要塞司令官に就任し、1932年(昭和7年)12月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]1933年(昭和8年)8月、砲工学校長に転じ、1935年(昭和10年)3月に予備役編入となった[1][2][3]

1937年(昭和12年)8月に召集され留守第16師団長に就任[1][2][3]1939年(昭和14年)8月、召集解除となり[2][3]、翌月、皇戦会理事長に就任[1]1942年(昭和17年)6月から10月まで、東京市会議長を務めた[1]

戦後は公職追放となった[5]

著書

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  • 『黒溝台会戦に於ける第八師団』偕行社、1929年。
  • 『皇国臣民の責務』日本問題研究所、1940年。
  • 『軍内の閥と士風』[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『日本陸海軍総合事典』第2版、111頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』507頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』177頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』175、177頁。
  5. ^ 公職追放の該当事項は「瑞穂倶楽部理事」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、419頁。NDLJP:1276156 

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。