小柳九一郎
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小柳 九一郎(こやなぎ くいちろう、1859年6月15日(安政6年5月15日)- 1929年2月22日)は、明治から昭和初期にかけての東京府において、当時の国分寺村(後の国分寺市)村長、東京府会議員などを歴任した地方政治家[1][2]。
1889年4月に、甲武鉄道(後の中央本線の一部)が新宿駅と立川駅の間に開通した際に、国分寺駅が開業したが、これは小柳が、所有していた7000坪(およそ2.3ha)の土地を換地に提供して現在の国分寺駅の位置に2000坪(およそ66a)ほどの土地を確保し[3]、これを駅用地として寄付し[1][2]、さらに他の地主からの寄付も合わせて実現したものであった[4]。
政治活動
[編集]1897年、小柳は府会議員の補欠選挙に国民協会系から立ち[5]、当選した[6]。
1920年の第14回衆議院議員総選挙の際に東京府第16区の議席を立憲政友会の内山安兵衛と秋本喜七が独占した際には、選挙の効力に関する異議訴訟を起こした[7]。1920年代には、ベテランの府会議員として憲政会の院外団で重きをなし、「三多摩非政友派の頭目」とも評された[8]。
顕彰碑
[編集]国分寺駅南口には、1960年12月に除幕された小柳九一郎顕彰碑が建てられている[9]。
脚注
[編集]- ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus『小柳九一郎』 - コトバンク
- ^ a b 20世紀日本人名事典『小柳 九一郎』 - コトバンク
- ^ 長谷部耕二 (2016年6月17日). “[たまのはてな]中央線 なぜ真っすぐ 建設容易 最短ルート選択”. 読売新聞・東京朝刊・多摩: p. 30. "国分寺駅前には、駅誘致に尽力した小柳九一郎を顕彰する石碑が立つ。駅用地約2000坪を無償提供するため、自分の土地約7000坪を換地、処分したことが記されている。" - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ 加藤勝三 (2014年10月21日). “国分寺駅(停車場)と中央線の歴史”. 早稲田大学校友会 国分寺稲門会. 2020年3月31日閲覧。
- ^ “府下北多摩府會会議員補欠選擧”. 読売新聞・朝刊: p. 3. (1897年4月17日). "...國民黨にてハ小柳九一郎秋元喜市の両氏を指名して...秋元氏は年長者の小柳氏を推して候補者を辭退した" - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “東京府及東京市公文 東京府告示第三十四號”. 読売新聞・朝刊: p. 3. (1897年5月1日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “投票箱の鉛筆審理”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 5. (1920年6月17日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “憲政院外決議”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 2. (1922年4月25日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “平成28年 第4回定例会 一般質問の質問事項・答弁の要旨” (PDF). 国分寺市議会だより (219): p. 2. (2017年2月1日) 2020年3月31日閲覧。