小柳司気太
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(小柳司氣太から転送)
人物情報 | |
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生誕 |
1870年12月24日 日本 新潟県中蒲原郡(現・新潟県新潟市西蒲区) |
死没 | 1940年7月18日(69歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学選科修了 |
学問 | |
研究分野 |
中国文学 道教の研究 |
研究機関 |
旧制山口高等学校 学習院大学 國學院大學 慶應義塾大学 大東文化学院 |
学位 | 文学博士(1921年) |
主な受賞歴 | 勲六等瑞宝章 |
小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治3年11月3日)[1]- 1940年(昭和15年)7月18日)は、日本の中国文学者、道教の研究者。新潟県出身。東京帝国大学選科修了。旧姓は熊倉[2]。
略歴
[編集]越後国中蒲原郡小吉村(現・新潟県新潟市西蒲区)で、熊倉玄周の子として生まれる。父の死後、母方の叔父・小柳卯三郎の養子となる[3]。1885年、粟生津村の私塾長善館に入門。1888年に上京。東京英語学校に入学するが、病気により一時退学、帰郷[3]。1894年、東京帝国大学漢学科選科修了[2]。藤田精一らと東亜学院を設立[4]し、月刊誌『東亜説林』を刊行する[3]。その後、広島尋常中学校教諭[5]、真言京都中学校教諭を務める。1898年、旧制山口高等学校教授[6]。1904年、学習院教授[7]。1921年に「朱子哲学ノ研究」により文学博士を授与される[8]。1922年に國學院大學教授、慶應義塾大学教授[2]。1926年に大東文化学院教授[2]となり、1940年、大東文化学院学長となるが、逝去。墓所は多磨霊園。
栄典
[編集]主要編著書
[編集]- 『宋学概論』(哲学書院、1894年)
- 『東洋史綱要』哲学館 1898
- 『普通道徳新論』林平次郎ほか 1902
- 『定本韓非子詳解』明治出版社 漢文註釈全書 1920
- 『道教概説』世界文庫刊行会 1923
- 『老荘哲学』甲子社書房 1928
- 『老子新釈』弘道館 昭和漢文叢書 1929
- 『新修漢和大字典』博文館 1932
- 『東洋思想の研究』正続 関書院 1934-38
- 『満洲観感記』東亜民族文化協会パンフレツト 1934
- 『老子講話』章華社 1934
- 『道教の一斑』東方書院 日本宗教講座 1935
- 『老荘の思想と道教』関書院 1935
共編著
[編集]- 『逍遥遺稿』宮本正貫との共編(非売品、1895年)
- 『詳解漢和大字典』服部宇之吉共著 冨山房 1916
- 『十八史略鈔』編 修文館 1932
- 『白雲観志』編 東方文化学院東京研究所 1934 国書刊行会 1986
- 『孟子鈔』編 東京修文館 1938
翻訳
[編集]- 『道教聖典』飯島忠夫共訳 世界文庫刊行會 1923 心交社 1987
関連書籍
[編集]- 村山吉廣『漢学者はいかに生きたか』大修館書店、1999年。ISBN 9784469231588。
- 村山吉廣 監修『近世之醇儒小柳司氣太』小柳司氣太博士顕彰記念誌編纂委員会編 新潟県西蒲原郡中之口村 1999
脚注
[編集]- ^ “故小柳司気太叙勲ノ件(叙勲裁可書・昭和十五年・叙勲巻九・内国人九)”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 国立公文書館 (1940年7月18日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ a b c d 20世紀日本人名事典
- ^ a b c 窪寺紘一『東洋学事始: 那珂通世とその時代』(平凡社、2009年)207頁
- ^ 小柳司気太「第二版自跋」『宋学概論』哲学書院、1903年6月30日、1-6頁。NDLJP:753322/134。
- ^ 『職員録 明治29年(11月1日現在)(乙)』内閣官報局、1897年1月9日、257頁。NDLJP:779773/166。
- ^ 『官報』第4625号、明治31年11月29日、p.285.NDLJP:2947915/3
- ^ 『官報』第6396号、明治37年10月24日、p.603.NDLJP:2949718/20
- ^ 『官報』第2743号、大正10年9月21日、p.517.https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954858/7
- ^ 『官報』第8257号、「叙任及辞令」1910年12月28日。