小沼敬三郎
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小沼敬三郎 こぬま けいざぶろう | |
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津山市長在任中に撮影された肖像 | |
生年月日 | 1873年6月26日 |
出生地 | 岡山県津山市 |
没年月日 | 1957年12月24日(84歳没) |
出身校 | 法政大学 |
称号 | 津山市名誉市民[1] |
在任期間 | 1926年11月 - 1929年 |
初代・2代 岡山県津山市長 | |
在任期間 | 1929年3月20日 - 1935年4月12日 |
在任期間 | 1939年9月3日 - 1942年9月24日 |
その他の職歴 | |
岡山県赤磐郡長 (不明 - 不明) | |
岡山県小田郡長 (不明 - 不明) | |
岡山県苫田郡長 (1923年 - 1926年) |
小沼 敬三郎(こぬま けいざぶろう、1873年(明治6年)6月26日[2] - 1957年(昭和32年)12月24日[2])は、日本の政治家、大蔵官僚。津山市長。
来歴
[編集]1873年6月、現在の岡山県津山市南新座に生まれる[3]。法政大学卒業[3]後、1902年、大蔵省(現財務省)へ入省[3]する。
その後、平沼騏一郎の推薦[3]で、岡山県赤磐、小田郡長となる[3]。1923年には、苫田郡長となる[3]。
1926年11月、苫田郡津山町長となる[3]。津山町、津山東町、西苫田村、二宮村、院庄村、久米郡福岡村との6町村の合併を推進し、1929年2月、津山市が発足した際、市長へ就任[3][4]した。
就任後、3期にわたり市長を務め、上水道整備、新市庁舎建設など、津山市の礎を築き上げた[1][3]。この間、水道工事の不正で1935年に一度、市長を辞職し、有罪判決を受ける[5]。これにより正六位返上を命じられ[6]、勲六等及び第一回国勢調査記念章、大礼記念章(大正/昭和)を褫奪された[7]。
戦後、公職追放となり[8]、追放解除後の1956年4月1日、功績を称え、津山市名誉市民として表彰される[1]。
1957年12月24日死去、84歳。
脚注
[編集]- ^ a b c 津山市 (2012年7月31日). “津山市名誉市民、旧町村名誉町村民のご紹介”. 2013年5月2日閲覧。
- ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、338頁。
- ^ a b c d e f g h i 『岡山人名辞典』171頁。
- ^ 津山市 (2012年10月9日). “歴代津山市長の紹介”. 2013年5月2日閲覧。
- ^ 山陽新聞社『昭和の岡山・政治と人と〈上〉戦前・戦中編』1979年、273頁
- ^ 官報 1939年4月22日 九六三頁
- ^ 官報 1939年5月1日 三六頁
- ^ 公職追放の該当事項は「翼賛支部長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、284頁。NDLJP:1276156。)
参考文献
[編集]- 吉岡三平 監修 『岡山人名辞典』 日本文教出版、1978年。