小泉淳作
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小泉 淳作(こいずみ じゅんさく、1924年10月26日[1] - 2012年1月9日[1])は、日本の日本画家、陶芸家。特定の美術団体に属さず、画壇とも距離を置いたことから「孤高の画家」と呼ばれた[1][2]。
来歴・人物
[編集]神奈川県鎌倉市生まれ[1]。政治家小泉策太郎の七男で[1]、俳優小泉博は弟にあたる。慶應義塾幼稚舎、普通部を経て、慶應義塾大学文学部予科に入学[1]。1943年、慶應義塾大学予科を中退し、東京美術学校日本画科に入学[1]。山本丘人に師事し[1]、1952年同学科を卒業[1]。1944年応召となるが、結核で療養生活に入る[1]。陸軍予備士官学校の経験からか、戦争には強烈な嫌悪感を抱いていた[3]。
その後、デザイナーとして活動し[1]、1954年第18回新制作展に「花火」「床やにて」が初入選[1]。1977年第4回山種美術館賞展で「奥伊豆風景」が優秀賞を受賞[1]。1996年から建長寺開創750年記念事業の一環として法堂の天井画の雲龍図を手がけ[1]、2000年に完成させる[1]。また、建仁寺慶讃800年記念行事に奉納する法堂天井画の双龍図を制作した[1]。2004年、第14回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞[1]。
家族
[編集]5歳のとき実母が急死し、東京広尾の本宅に移り住む。13歳のとき父小泉策太郎死去。
学歴
[編集]- 小学校:慶應義塾幼稚舎[1]
- 中学校:慶應義塾普通部[1]
- 慶應義塾予科仏文[1]
- 1943年(昭和18年) 4月 東京美術学校 入学
- 1948年(昭和23年) 4月 東京美術学校 復学[1]
- 1952年(昭和27年) 3月 東京美術学校 卒業[1]
師および交友関係者
[編集]- 安岡章太郎(慶應仏文予科同級生、小説家)
- 山本丘人(東京美術学校恩師)
- 平山郁夫(東京美術学校同級生、日本画家)
- 團伊玖磨(作曲家)
- 石井好子(幼稚舎同窓石井公一郎(ブリヂストン自転車)の姉、シャンソン歌手)
- 辻邦生(デザインの仕事先民生デイゼル(現UDトラックス)を通じての知り合い、小説家)
- 武谷三男(阿佐ヶ谷時代の大家の娘主宰の集まり、物理学者)
- 福田恆存(弟小泉博の紹介、劇作家)
- 田近憲三(美術評論家)
- 中川一政(陶芸仲間、洋画家)
- 星忠伸(画廊主)
主要作品
[編集]- 『奥伊豆風景』(山種美術館賞優秀賞・山種美術館蔵)、1977年
- 『山を切る道』(国立近代美術館蔵)、1977年
- 『新雪の鳥海山』(小泉淳作美術館蔵)、1994年
- 建長寺『雲龍図』、2000
- 建仁寺『双龍図』、2001年
- 東大寺 襖絵(鳳凰4面、飛天4面、散華4面、桜12面、蓮池16面)
- 『東大寺別当清水公照師像』、1984年
個人美術館
[編集]- 小泉淳作美術館(北海道中札内村)
後援者
[編集]関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w “小泉淳作 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 国立文化財機構 東京文化財研究所. 2023年3月6日閲覧。
- ^ “小泉淳作|人物|NHKアーカイブス”. www2.nhk.or.jp. NHK. 2023年3月6日閲覧。
- ^ a b 『私の履歴書』(日本経済新聞2011年8月連載)
- ^ “日本画家の小泉淳作さん死去…建長寺に天井画” - ウェイバックマシン(2012年1月18日アーカイブ分) - 読売新聞. (2012年1月9日).2020年11月29日閲覧。