小浜城 (陸奥国)
小浜城 (福島県) | |
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本丸石垣 | |
別名 | 下舘 |
城郭構造 | 連郭式平山城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 大内宗政? |
築城年 | 1471年(文明3年) |
主な城主 | 大内氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏 |
廃城年 | 1627年(寛永4年) |
遺構 | 石垣、堀切、曲輪 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯37度33分51.3秒 東経140度30分42.2秒 / 北緯37.564250度 東経140.511722度座標: 北緯37度33分51.3秒 東経140度30分42.2秒 / 北緯37.564250度 東経140.511722度 |
地図 |
小浜城(おばまじょう)は、福島県二本松市にあった戦国時代の日本の城(山城)。現在は本丸跡が史跡公園として整備されている。
歴史・沿革
[編集]小浜城のある塩松地方(現在の福島県二本松市の一部を含む)は、室町時代には石橋氏の所領であった。小浜城はその家臣・大内氏の、大内宗政が文明3年(1471年)に築いたといわれている[1]。永禄11年(1568年)、小浜城主・大内義綱は田村氏に通じて主家の石橋尚義を追放し、塩松地方一帯を支配下に置いた。大内氏はその後、田村氏からの独立を目論んで伊達氏・蘆名氏の側に転じた。天正12年(1584年)に伊達政宗が家督を継ぐと、当主・大内定綱は引き続き伊達氏への従属を誓ったが、翌年には離反し、蘆名氏に属する。これに対し、政宗は自ら軍を率いて塩松地方へ攻め込み、支城の小手森城を攻め落とすと、その勢いで塩松地方の制圧に成功した。小浜城の大内定綱は蘆名氏を頼って逃亡し、政宗は小浜城へ無血入城することができた。この後政宗は小浜城を二本松氏攻撃の拠点とし、天正14年(1586年)8月までの約1年間滞在した。政宗の父・輝宗が二本松義継に拉致殺害された事件(粟之巣の変事)が起きたのもこの小浜城滞在期間中である。なお、定綱は郡山合戦の際に伊達成実の調略によって帰参し、後に伊達家の重臣となった。天正19年(1591年)、奥州仕置によって塩松が蒲生氏郷領となると、家臣の蒲生忠右衛門が2万5千石を与えられて小浜城代となった。現在、本丸跡に残されている石垣はこの時築造されたものである。その後、上杉氏時代は山浦景国、再蒲生時代は玉井貞右が城代となり、寛永4年(1627年)廃城となった。
構造
[編集]小浜城跡は二本松市役所岩代支所(旧岩代町役場)東側の丘陵一帯である。最も高い平場を本丸とし、その四方に6つのやや大きめの郭が存在し、さらに南西方向は小規模な郭を階段状に配置している。本丸跡は昭和56年(1981年)に発掘調査されており、7棟の掘立建物跡が確認されている。また、本丸入口に現存する石垣は蒲生氏郷時代のものと推定されている。現在、郭は畑になり解りづらい、堀切は道路になっていたり、他の堀切には倉庫が置かれている。本丸跡は公園となっていて、大内氏の子孫により、大内氏の碑が建てられてる。
小浜城跡の南方約2kmに宮森城跡がある。小浜城は下舘、宮森城は上舘とも称され、両城一体となって小浜城の防御が戦略的に可能になるといえる。
脚注
[編集]- ^ 『小浜史跡名勝パンフレット』二本松市公式HP