小田切昌近
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛永16年(1639年) |
死没 | 正徳2年8月15日(1712年9月15日)[1] |
別名 | 彌太郎、彌兵衛、加兵衛[1] |
戒名 | 浄林[1] |
墓所 | 東京都新宿区の月桂寺[1] |
主君 | 徳川家光→徳川家綱→徳川綱吉 |
氏族 | 小田切氏 |
父母 | 父:小田切昌快、母:小田切昌次養女(小田切昌直娘)[1] |
兄弟 | 昌近、昌一、昌直、青木昌廉、某(弥三郎)、某(加右衛門)、女子(石原安吉妻)、女子(高林正成妻)、女子(永田正勝妻)、女子(青木又左衛門某妻)、女子(岡野重明妻)[1] |
妻 | 間宮信秀娘[1] |
子 | 昌雄、女子(石川忠部妻)、女子、女子[1] |
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小田切 昌近(おだぎり まさちか)は、江戸時代中期の武士。徳川氏家臣。
経歴・人物
[編集]正保3年2月16日(1646年4月1日)8歳の時、徳川家光に拝謁する[1]。万治2年7月4日(1659年8月21日)大番に列し、寛文元年12月12日(1662年1月31日)に蔵米200俵を賜う[1]。延宝7年6月3日(1679年7月10日)番を辞し、小普請となる[1]。のち天和3年5月25日(1683年6月19日)再び大番に列す[1]。
貞享3年12月19日(1687年2月1日)上総国山辺郡砂田・萱野村にて争論が起こると、貞享4年7月6日(1687年8月13日)同地に赴くが、勤務が疎かであるとして土岐頼殷、のち酒井忠予に預けられる[1]。元禄元年5月9日(1688年6月6日)赦免される[1]。元禄7年5月10日(1694年6月2日)蔵米200俵を賜い、小普請となる[1]。元禄9年7月5日(1696年8月2日)致仕する[1]。致仕号は秋山[1]。