土岐頼殷
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永19年9月3日(1642年9月26日)[要出典] |
死没 | 享保7年9月22日(1722年10月31日) |
改名 | 土岐頼隆[1]→頼殷 |
別名 | 兵部(通称)[1] |
戒名 | 官成院俊巌紹英居士 |
墓所 | 萬松山東海寺の春雨庵 |
官位 | 従四位下・伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱、綱吉、家宣、家継 |
藩 | 出羽国上山藩主→(越前国野岡藩主)→駿河国田中藩主 |
氏族 | 土岐氏 |
父母 | 父:土岐頼行、母:福山氏 |
兄弟 | 頼殷、頼長、頼賢 |
妻 |
正室:西郷延員の娘 継室:牧野親成の娘 側室:渡辺氏 |
子 | 頼稔、頼郷(次男) |
土岐 頼殷(とき よりたか[1][2])は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出羽上山藩の土岐家第2代藩主で、大坂城代を務めたのち、駿河田中藩の初代藩主となった。沼田藩土岐家3代。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]寛永19年(1642年)9月3日[要出典]、上山藩藩主・土岐頼行の庶長子として生まれる[要出典]。『寛政重修諸家譜』によれば、寛永18年(1641年)生まれ[1]。土岐家の後継予定者としては弟[注釈 1]の土岐頼長が定められていた。
承応元年(1652年)6月28日、将軍徳川家綱に御目見[1]。寛文3年(1663年)に書院番士となり[1]、寛文5年(1665年)に蔵米300俵を給される[1]。寛文7年(1667年)に小姓に転じ、200俵を加えられ、従五位下・伊予守に叙位・任官された[1]。寛文12年(1672年)、小姓組番頭となって奥詰を兼ね、1000俵を加給された[1](合計1500俵)。
上山藩主となる
[編集]延宝6年(1678年)、土岐家の世嗣であった頼長は多病を理由として廃嫡され、5月27日に頼殷が世継ぎとなることが認められた[1]。これに伴い、幕府の職は解かれ、蔵米知行は収公された[1]。同年8月16日、父の隠居と頼殷の家督相続が認められ[1]、上山藩2万5000石の土岐家第2代藩主となった。延宝7年(1679年)6月には知行地入りの暇を得ている[1]。
貞享4年(1687年)7月には小田切昌近を預けられ[注釈 2]、11月には下野烏山藩那須家の改易(那須資徳参照)に伴い、烏山城の受け取りを務めた[4]。元禄3年(1690年)12月3日、奏者番に任じられた[3]。
大坂城代就任
[編集]元禄4年(1691年)1月11日、大坂城代に任じられるとともに1万石(摂津・河内両国内19か村[5])を加増され、知行高は3万5000石となった[3]。
元禄5年(1692年)2月26日に領知替えが行われ、摂津・河内・越前の3国内で3万5000石を領することとなった[3]。上山が大坂から遠いという理由から、旧来の領地2万5000石が越前国に移されたものである[5]。土岐家は、越前国の所領を管轄すべく今立郡野岡村(現在の福井県越前市野岡町)に陣屋を設置し[6]、奉行や代官を置いて年貢収納や地方支配にあたらせた[5][6]。以後、野岡村は正徳2年(1712年)の転出まで頼殷の越前国の所領(「野岡領」[5])の管轄拠点であり[5]、大坂城代を務めていた時期の頼殷の領国(藩)を「野岡藩」と呼称することがある[7][8]。
元禄14年(1701年)10月28日、従四位下に昇叙[3]、同年11月28日に京都所司代格となる[3]。
宝永5年(1708年)閏1月11日、越前国の領地のうち1万5000石が播磨国に移された[5]。
田中藩への移封と晩年
[編集]正徳2年(1712年)5月15日、大坂城代を辞職、駿河田中藩に移封された[3]
正徳3年(1713年)7月6日、家督を長男の頼稔に譲って隠居する[3]。
享保7年(1722年)9月22日に死去した[3][2]。享年81(『寛政譜』によれば82[3])。田中の増円寺に葬られ、のち頼稔のときに品川東海寺の春雨庵に改葬した[3]。
系譜
[編集]特記事項のない限り『寛政譜』による[4]。( )内は『寛政譜』の記載順。
- 父:土岐頼行
- 母:側室(福山氏[要出典])
- 正室:西郷延員の娘
- 継室:牧野親成の娘
- 女子(3)
- 側室(渡辺氏[要出典])
- 生母不明の子女[注釈 3]
- 二男(2):土岐頼郷
- 女子(4)
- 三男(5) :藤丸
- 女子(6)
- 四男(7) :熊松
- 五男(8) :頼母
- 女子(9)
- 女子(10)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.581。
- ^ a b “土岐頼殷”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2024年11月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.582。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.581-582。
- ^ a b c d e f “第一章>第一節>三>野岡領”. 『福井県史』通史編4 近世二. 2024年11月30日閲覧。
- ^ a b “野岡村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年11月30日閲覧。
- ^ 石川美咲 2017, p. 60.
- ^ 加藤貞仁 (2015年6月26日). “~やまがた~藩主の墓標/(23)沢庵と上山との縁”. yamacomi. 山形コミュニティ新聞社. 2023年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月30日閲覧。
参考文献
[編集]- 石川美咲「野岡藩主 土岐頼殷にまつわる伝説 「野岡願教寺古喚鐘改鋳ニ付願書写」の紹介」『若越郷土研究』第62巻、第1号、2017年。doi:10.24484/sitereports.121555-61786 。