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土屋政直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土屋政直
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永18年2月5日1641年3月16日
死没 享保7年11月16日1722年12月23日
別名 左門
戒名 俊翁耆徳相院
墓所 海禅院(東京都台東区)
幕府 江戸幕府奏者番大坂城代京都所司代老中
主君 徳川家綱綱吉家宣家継吉宗
常陸土浦藩主→駿河田中藩主→常陸土浦藩主
氏族 土屋氏
父母 父:土屋数直、母:水野忠貞
兄弟 政直水野雅直渡辺進正室、稲葉正休正室
正室:松平康信
継室:六条有和
原易純
昭直定直陳直松平乗邑正室、岡部長敬正室、内藤義孝正室
養子:好直三浦明喬
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土屋 政直(つちや まさなお)は、江戸時代前期から中期にかけての大名老中常陸国土浦藩主、駿河国田中藩主。

生涯

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土浦藩主土屋数直の長男として生まれ、父の死後に家督を相続する。その後、駿河田中藩を経て土浦藩に復帰する。漸次加増をうけ、最終的に9万5000石となる。奏者番大坂城代京都所司代を経て老中に就任、元禄11年(1698年)に老中首座となり4人の将軍に仕えた。

元禄15年12月14日 (旧暦) (1703年(1702年ではない)1月30日)、赤穂事件が起こり、討ち入りがはじまるとすぐ、吉良邸隣の土屋逵直から通報を受けた[1]。政直らの老中は即刻、上杉家に使者を送り、援軍を送らないよう鎮撫している。

側用人政治を展開していた新井白石間部詮房には内心反対し、7代将軍徳川家継の後継者争いの際、側用人の廃止を条件として徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍になると老中らに口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは3問中2問を答えることができた政直のみだったという。

享保4年(1719年)、老中を辞任・隠居して四男の陳直に家督を譲り、3年後に82歳の高齢で亡くなった。隠居後も特に前官礼遇を受けていた。

茶道を嗜み、遠州流の門人の一人でもある。また、赤穂事件の際に、討ち入りを通報してきた従甥の土屋逵直の次男好直を養子に迎えている。

年表

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※日付=旧暦

  • 1641年寛永18年)2月5日、誕生。左門を称す。
  • 1679年延宝7年)4月2日、父数直卒、5月10日、土浦藩家督相続、9月13日、奏者番に就任。
  • 1682年天和2年)2月、駿河田中藩に国替
  • 1684年貞享元年)7月10日、大坂城代に異動。加増(2万石)
  • 1685年(貞享2年)9月27日、京都所司代に異動。
  • 1687年(貞享4年)10月13日、老中に異動、常陸国土浦に国替。1万石加増。
  • 1694年元禄7年)4月21日、加増(1万石)
  • 1698年(元禄11年)9月17日、老中首座に就任。
  • 1711年正徳元年)12月、加増(1万石)
  • 1718年享保3年)3月3日、老中免、加増(1万石)
  • 1719年(享保4年)5月28日、隠居致仕
  • 1722年(享保7年)11月16日死去、享年82。

官歴

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※日付=旧暦

  • 1658年万治元年)閏12月27日、従五位下に叙し、能登守 に任官。
  • 1665年寛文5年)12月25日、相模守に転任。
  • 1685年貞享2年)10月6日、従四位下に昇叙し、侍従兼任。

系譜

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父母

正室、継室

側室

子女

養子、養女

参考文献

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演じた俳優

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脚注

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  1. ^ 『大石内蔵助の生涯 真説・忠臣蔵』111p

関連項目

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