土岐頼稔
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土岐頼稔 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元禄8年2月6日(1695年3月20日) |
死没 | 延享元年9月12日(1744年10月17日) |
別名 | 内匠、兵部(通称)、頼俊 |
戒名 | 乾光院殿真岩道如大居士 |
墓所 | 東京都品川区北品川の東海寺春雨庵 |
官位 | 従四位下、丹後守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中 |
主君 | 徳川家継→吉宗 |
藩 | 駿河田中藩主→上野沼田藩主 |
氏族 | 土岐氏 |
父母 | 父:土岐頼殷、母:渡辺氏 |
兄弟 | 頼稔、頼郷 |
妻 | 松平忠雄の娘 |
子 | 頼煕、菅沼定興、定則、定経、松平康福正室、智峰院、木下俊泰正室、織田輔宜正室 |
土岐 頼稔(とき よりとし)は、江戸時代中期の大名。駿河国田中藩の第2代藩主、上野国沼田藩の初代藩主。沼田藩土岐家4代。官位は従四位下・丹後守、侍従。
生涯
[編集]元禄8年(1695年)2月6日、または2月8日に田中藩初代藩主土岐頼殷の長男(三男だったが2人の兄が早世したために世子となる、との説もある)として大坂で生まれる。正徳3年(1713年)7月、父の隠居により家督を相続する。奏者番・寺社奉行・大坂城代などを歴任した。享保17年(1732年)の享保の大飢饉における窮民対策で尽力したため、将軍徳川吉宗に賞賛されている。享保19年(1734年)6月に京都所司代となる。寛保2年(1742年)6月に老中となり、同年8月に田中から上野沼田へ移封された。
延享元年(1744年)9月12日、50歳で江戸にて死去した。跡を長男の頼煕が継いだ。
系譜
[編集]父母
- 土岐頼殷(父)
- 渡辺氏 - 側室(母)
正室
- 松平忠雄の娘
子女