土井利里
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保7年(1722年) |
死没 | 安永6年8月14日(1777年9月15日) |
改名 | 幾之助(幼名)、利里 |
別名 | 左門(通称) |
戒名 | 広智院殿勇誉仁翁理玄大居士 |
墓所 | 茨城県古河市大手町の正定寺 |
官位 | 従五位下、大炊頭、従四位下侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重、家治 |
藩 | 肥前唐津藩主、下総古河藩主 |
氏族 | 土井氏 |
父母 |
土井利清、土井利益娘 土井利延 |
兄弟 | 利延、利里 |
妻 | 土井利知娘 |
子 | 利剛、利建、利見、三保子、青山忠裕正室 |
土井 利里(どい としさと)は、江戸時代中期の大名。肥前国唐津藩4代藩主、下総国古河藩主。京都所司代。土井家宗家8代。
生涯
[編集]5000石の大身旗本土井利清の次男として生まれる。本家の唐津藩主家を相続していた兄の利延が死去したため、その養子となって家督を相続した。
幕府では奏者番となった後、国替されて家祖利勝時代の領地古河へ復帰する。さらに寺社奉行を経て京都所司代にのぼり、老中の一歩前まで来たところで死去した。
利里も子に恵まれず、はじめ旗本久世広武の四男を迎え、利剛と名乗らせ養嗣子としていたが早世した。その後、川越藩主松平朝矩の長男を迎え、利建と名乗らせていたが、安永4年(1767年)に廃嫡した。次いで西尾藩主松平乗祐の十男の才百を迎え、利見と名乗らせ家督を相続させた。
年表
[編集]- 1722年(享保7年) - 生まれる
- 1744年(延享元年) - 土井家相続(9月23日)
- 1759年(宝暦9年) - 奏者番
- 1762年(宝暦12年) - 古河に国替
- 1763年(宝暦13年) - 寺社奉行(2月18日)
- 1769年(明和6年) - 京都所司代(8月18日)
- 1777年(安永6年) - 死去、享年56
官歴
[編集]系譜
[編集]父母
正室
- 土井利知の娘
養子、養女
- 土井利剛 - 久世広武の四男
- 土井利建 - 松平朝矩の長男
- 土井利見 - 松平乗祐の十男
- 土井三保子 - 土井利国正室、後に本多忠奝継室、後に五島盛運継室、土井利剛の娘
- 青山忠裕正室 - 土井利剛の娘
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