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牧野忠恭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
牧野 忠恭
牧野忠恭(京都所司代時代の撮影)
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政7年9月1日1824年10月22日
死没 明治11年(1878年9月1日
改名 壮之助(幼名)→忠恭→雪堂(号)
墓所

東京都港区済海寺

長岡市蒼柴神社
官位 従四位下備前守玄蕃頭
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行京都所司代老中
主君 徳川家定家茂慶喜
越後長岡藩
氏族 大給松平家牧野氏
父母 父:松平乗寛、母:側室
養父:牧野忠雅
兄弟 松平乗全忠衛忠恭松平乗秩水野忠義正室、松平某室、松平信恵
正室:牧野忠雅養女・
千代
忠毅忠篤、彜子、総子、好子、美子ら
養子:忠訓
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牧野 忠恭(まきの ただゆき)は、江戸時代後期の大名越後国長岡藩11代藩主。長岡藩系牧野家宗家12代。

生涯

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『泰平萬代 大成武鑑 御大名衆 巻之二 分冊ノ一』(万延2年(1861年)刊)より越後長岡藩牧野忠恭の箇所

文政7年(1824年)9月1日、三河西尾藩主・松平乗寛の三男として江戸に生まれる。越後長岡藩の第10代藩主・牧野忠雅の養子となる。ちなみに次兄の牧野忠衛も三根山領主となっている。武鑑では嗣子時代の附役に小林親真(又兵衛、小林虎三郎の父)が一時期なっていたことが分かる。

天保11年(1840年)4月28日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下玄蕃頭に叙任する。安政5年(1858年)10月25日、養父忠雅の死去により、家督を継いで第11代藩主となる。

万延元年(1860年)6月25日奏者番文久2年(1862年)3月24日寺社奉行加役、同年8月24日京都所司代に就任する。京都所司代就任にともない、従四位下侍従に昇進する。文久3年(1863年)6月11日、「当時の京都は騒動続きであり、長岡藩のような小藩では対応できない」として辞職した。同年9月13日老中に就任し、12月24日外国事務を取り扱うことを命じられた。このとき、家臣・河井継之助を公用人として重用し、藩政改革を行う。元治元年(1864年)7月22日勝手用掛を命じられた。慶応元年(1865年)4月13日、政局に難題が積まれるに及んで老中職を退いた。京都所司代、老中の辞任はいずれも河井の進言によるものだった。

慶応3年(1867年)7月11日、隠居し、養子忠訓に家督を譲った。隠居後、雪堂と号した。北越戦争を経て謹慎し、明治に入ってから許される。明治8年(1875年)2月、四男忠毅の隠居により、家督を再び相続した。明治11年(1878年9月1日、55歳で死去した。五男の忠篤が跡を継いだ。

人物

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『竹』牧野忠恭画。長岡市立中央図書館所蔵。

1982年済海寺における牧野家墓地改葬に伴う緊急遺骨調査によると、以前に改葬されていたために調査当時、遺骨の保存状態が悪かったとしている。推定身長は尺骨から推定して149.1cmで太さも細く、牧野忠精の長男牧野忠鎮並みに華奢な体格と推定している。

系譜

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父母

正室

側室

  • 千代

子女

  • 牧野忠毅(四男) 生母は千代
  • 牧野忠篤(五男)
  • 牧野彜子つねこ(次女) - 牧野忠訓
  • 牧野総子 - 牧野忠泰正室
  • 牧野好子こうこ(九女) - 本庄寿巨継室(後に離縁)
  • 牧野美子 - 牧野貞寧正室

養子

参考文献

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  • 済海寺遺跡調査団(団長鈴木公雄)「港区三田済海寺 長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書」(1986年・東京都港区教育委員会)

関連項目

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脚注

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当主
先代
牧野忠毅
長岡藩牧野家
1875年 - 1878年
次代
牧野忠篤
先代
牧野忠雅
長岡藩牧野家
1858年 - 1867年
次代
牧野忠訓