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太田資次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
太田 資次
時代 江戸時代前期
生誕 寛永6年12月1日1630年1月14日
死没 貞享元年4月6日1684年5月20日
戒名 見性院殿道雄日健大居士
墓所 静岡県三島市の妙法華寺
官位 従五位下、従四位下、摂津
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行(兼任)→
大坂城代
遠江浜松藩主→河内摂津国
氏族 太田氏
父母 父:太田資宗
兄弟 稲葉正吉正室、資政[1]資次加藤泰義正室、永井尚庸継室、一柳末礼正室、資良[2]土井利益正室、角倉玄恒
正室:本多忠利の娘
継室:宗義成の娘)
継々室:能勢頼次の養女松平昌重の娘)
長男、資直資明資方[3]
娘(内藤弌信正室)
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太田 資次(おおた すけつぐ)は、遠江浜松藩の第2代藩主。大坂城代などの要職を務めた。掛川藩太田家2代。

生涯

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寛永6年(1629年)12月1日、浜松藩の初代藩主・太田資宗の次男として生まれた。早くから第3代将軍の徳川家光に近侍した。兄の資政の廃嫡によって嫡子となり、慶安4年(1651年)12月28日に従五位下に叙位された。寛文11年(1671年)12月19日、父の隠居により家督を継いだ。この時、弟の資良に俵米3,000石並びに新田2,000石の合計5千石を分知したため、所領は3万5,000石から3万2,000石となった。

延宝元年(1673年)に奏者番に任じられた。延宝4年(1676年)7月26日に寺社奉行を拝命し、兼任した。延宝6年(1678年)6月19日、大坂城代に任じられ、2万石を加増された上で所領を摂津河内下総などに移されたため、浜松藩から去って畿内周辺に移封となった。

貞享元年(1684年)4月6日に死去。享年56。跡を次男の資直が継いだ。

系譜

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父母

正室、継室

子女

脚注

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  1. ^ 廃嫡
  2. ^ 旗本5千石
  3. ^ 四男。旗本2千石
先代
-
摂津・河内・下総国内
1678年 - 1684年
次代
太田資直