太田資次
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永6年12月1日(1630年1月14日) |
死没 | 貞享元年4月6日(1684年5月20日) |
戒名 | 見性院殿道雄日健大居士 |
墓所 | 静岡県三島市の妙法華寺 |
官位 | 従五位下、従四位下、摂津守 |
幕府 |
江戸幕府 奏者番→寺社奉行(兼任)→ 大坂城代 |
藩 | 遠江浜松藩主→河内・摂津国内 |
氏族 | 太田氏 |
父母 | 父:太田資宗 |
兄弟 | 稲葉正吉正室、資政[1]、資次、加藤泰義正室、永井尚庸継室、一柳末礼正室、資良[2]、土井利益正室、角倉玄恒室 |
妻 |
正室:本多忠利の娘 継室:長(宗義成の娘) 継々室:能勢頼次の養女(松平昌重の娘) |
子 |
長男、資直、資明、資方[3]、 娘(内藤弌信正室) |
太田 資次(おおた すけつぐ)は、遠江浜松藩の第2代藩主。大坂城代などの要職を務めた。掛川藩太田家2代。
生涯
[編集]寛永6年(1629年)12月1日、浜松藩の初代藩主・太田資宗の次男として生まれた。早くから第3代将軍の徳川家光に近侍した。兄の資政の廃嫡によって嫡子となり、慶安4年(1651年)12月28日に従五位下に叙位された。寛文11年(1671年)12月19日、父の隠居により家督を継いだ。この時、弟の資良に俵米3,000石並びに新田2,000石の合計5千石を分知したため、所領は3万5,000石から3万2,000石となった。
延宝元年(1673年)に奏者番に任じられた。延宝4年(1676年)7月26日に寺社奉行を拝命し、兼任した。延宝6年(1678年)6月19日、大坂城代に任じられ、2万石を加増された上で所領を摂津・河内・下総などに移されたため、浜松藩から去って畿内周辺に移封となった。
貞享元年(1684年)4月6日に死去。享年56。跡を次男の資直が継いだ。
系譜
[編集]父母
- 太田資宗(父)
正室、継室
子女
脚注
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