土岐定経
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保13年9月6日(1728年10月8日) |
死没 | 天明2年8月20日(1782年9月26日) |
改名 | 千之助(幼名)、定経 |
別名 | 頼母(通称) |
戒名 | 乾隆院殿元徳道亨大居士 |
墓所 | 東京都品川区北品川の東海寺春雨庵 |
官位 | 従五位下、美濃守 |
幕府 | 江戸幕府奏者番、寺社奉行、大坂城代 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 上野沼田藩主 |
氏族 | 土岐氏 |
父母 |
父:土岐頼稔、母:不詳 養父:土岐頼煕 |
兄弟 | 頼煕、菅沼定興、定則、定経、松平康福正室、智峰院、木下俊泰正室、織田輔宜正室ら |
妻 | 不詳 |
子 | 頼相、頼寛、定吉、定富、定考、頼布、井上正定継室、磯ら |
土岐 定経(とき さだつね)は、上野国沼田藩の第3代藩主。沼田藩土岐家6代。
生涯
[編集]初代藩主・土岐頼稔の五男として田中に生まれる。宝暦5年(1755年)、兄の先代藩主・頼煕が嗣子無くして死去したため、その跡を継いだ。藩財政再建のために重税を領民に課そうとしたが、見取騒動が起こったため失敗に終わった。明和元年(1764年)2月に奏者番、同年6月に寺社奉行、天明元年(1781年)に大坂城代となった。
天明2年(1782年)8月20日、大坂にて55歳で死去し、跡を次男の頼寛が継いだ。
系譜
[編集]父母
子女
脚注
[編集]- ^ 別名は頼量。