土岐頼知
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土岐頼知 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 嘉永元年(1848年) |
死没 | 明治44年(1911年)10月4日 |
改名 | 英之助、頼知 |
墓所 | 春雨寺 |
官位 | 従五位下・隼人正、正四位、従三位、子爵 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 上野沼田藩主 |
氏族 | 土岐氏 |
父母 | 父:土岐頼之、母:不詳 |
兄弟 | 頼知、寿賀子、鈴子 |
妻 |
正室:松平信義の娘・萬千子[1] 継室:白石五郎八の娘・八重[1] |
子 | 頼敏、章、米子、幾子ら |
土岐 頼知(とき よりおき)は、江戸末期の大名、明治期の華族。位階爵位は従三位子爵。沼田藩土岐家第15代目の当主で上野国沼田藩第12代(最後)の藩主、同藩初代知藩事を務めた。
略歴
[編集]嘉永元年(1848年)、第11代藩主土岐頼之の長男[2]として江戸にて誕生した(嘉永2年(1849年)9月26日生まれとも[1])。9代土岐頼功の五男で天保13年(1842年)9月26日生まれともされる[3]。幼名は英之助。1862年に従五位下・隼人正に任官[4]。
慶応3年(1867年)4月16日、頼之が病気を理由に隠居したため、その跡を継いだ。翌年の戊辰戦争では4月に朝廷の命令で上京し、新政府に恭順の意を示し、沼田への官軍の進駐を承認。その後三国峠の戦いで会津軍と戦った。明治2年(1869年)、版籍奉還で藩知事となるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官される。明治17年(1884年)に子爵に列する[5]。明治30年(1897年)に正四位に叙せられ、後に従三位となった[6]。
明治44年(1911年)10月4日[7]、64歳で死去した。墓所は萬松山東海寺の春雨庵だったが、現在は単立寺院となった春雨寺。
家族
[編集]父母
妻
- 松平萬千子 - 松平信義の娘(正妻)
- 白石八重 - 白石五郎八の娘(継妻)
子女
脚注
[編集]- ^ a b c 『人事興信録. 3版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『群馬県史 資料編12』 p.61
- ^ 群馬県立歴史博物館図録「第37回企画展「沼田藩―土岐時代の歴史と文化―」」43頁参照
- ^ 新田完三 1984, p. 652.
- ^ 「華族令による最初の授爵」『時事新報』明治17年7月7日(新聞集成明治編年史、第五巻)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b c 『人事興信録. 3版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「華族薨去」『官報』1911年10月6日(国立国会図書館デジタル化資料)
- ^ 『人事興信録. 4版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『人事興信録. 7版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、147頁。
注釈
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。
関連項目
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (沼田)土岐家初代 1884年 - 1911年 |
次代 土岐頼敏 |