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土岐頼知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土岐頼知
土岐頼知
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 嘉永元年(1848年
死没 明治44年(1911年10月4日
改名 英之助、頼知
墓所 春雨寺
官位 従五位下隼人正正四位従三位子爵
主君 明治天皇
上野沼田藩
氏族 土岐氏
父母 父:土岐頼之、母:不詳
兄弟 頼知、寿賀子、鈴子
正室:松平信義の娘・萬千子[1]
継室:白石五郎八の娘・八重[1]
頼敏、米子、幾子ら
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土岐 頼知(とき よりおき)は、江戸末期の大名、明治期の華族。位階爵位は従三位子爵。沼田藩土岐家第15代目の当主で上野国沼田藩第12代(最後)の藩主、同藩初代知藩事を務めた。

略歴

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嘉永元年(1848年)、第11代藩主土岐頼之の長男[2]として江戸にて誕生した(嘉永2年(1849年)9月26日生まれとも[1])。9代土岐頼功の五男で天保13年(1842年)9月26日生まれともされる[3]。幼名は英之助。1862年に従五位下隼人正に任官[4]

慶応3年(1867年)4月16日、頼之が病気を理由に隠居したため、その跡を継いだ。翌年の戊辰戦争では4月に朝廷の命令で上京し、新政府に恭順の意を示し、沼田への官軍の進駐を承認。その後三国峠の戦い会津軍と戦った。明治2年(1869年)、版籍奉還藩知事となるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官される。明治17年(1884年)に子爵に列する[5]。明治30年(1897年)に正四位に叙せられ、後に従三位となった[6]

明治44年(1911年)10月4日[7]、64歳で死去した。墓所は萬松山東海寺の春雨庵だったが、現在は単立寺院となった春雨寺

家族

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父母

  • 松平萬千子 - 松平信義の娘(正妻)
  • 白石八重 - 白石五郎八の娘(継妻)

子女

脚注

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  1. ^ a b c 『人事興信録. 3版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ 『群馬県史 資料編12』 p.61
  3. ^ 群馬県立歴史博物館図録「第37回企画展「沼田藩―土岐時代の歴史と文化―」」43頁参照
  4. ^ 新田完三 1984, p. 652.
  5. ^ 「華族令による最初の授爵」『時事新報』明治17年7月7日(新聞集成明治編年史、第五巻)(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ a b c 『人事興信録. 3版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 「華族薨去」『官報』1911年10月6日(国立国会図書館デジタル化資料)
  8. ^ 『人事興信録. 4版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 『人事興信録. 7版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、147頁。

注釈

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  1. ^ 1911年襲爵[8]
  2. ^ 1918年襲爵[9]

参考文献

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関連項目

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日本の爵位
先代
叙爵
子爵
沼田土岐家初代
1884年 - 1911年
次代
土岐頼敏